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イタリアってどんな国?

イタリア共和国(イタリアきょうわこく、イタリア語表記:Repubblica Italiana)、通称イタリアは、ヨーロッパ南部の国。イタリア半島およびその付け根に当たる部分と、地中海に浮かぶ2つの大きな島(サルデーニャ島、シチリア島)からなる。北にあるアルプス山脈において、フランス、スイス、オーストリアと、またスロベニアとも国境を接する。サンマリノ、バチカンの領土を取り囲んでいる。

イタリアの地図

イタリアのブログ旅行記

ローマ|諸岡なほ子の『旅の途中のスウィートホーム』

2008年1月27日 ... さて、順番は逆になりますが、散々みなさまにはドルチェを召し上がって頂いたのですが 、今日はイタリアロケ中に食べた ... というより、イタリアの気候風土の中で育ったイタリア の食材、その良さをいかしたお料理カルチャーなんだなぁと感心 ...

08/07 - およよな生活 - アイスランド旅行記 -

うどんとスパゲティの中間のような麺にトマトソースが乗っている。海外でスパゲティを 食べたのはこれで2度目だが、なぜこんなに不思議な物体に変わっているのだろうか。 ひょっとして、アルデンテが美味いと思っているのは日本人とイタリア人だけなのだろうか 。

イタリア旅行2日目(フィレンツェ): Shoの旅行記~気の向くままに歩いて ...

2007年1月4日 ... イタリア旅行2日目(フィレンツェ),日帰り旅行から長期旅行、さらにテクテクと歩いて 見つけた楽しそうなところも含め案内します。目指せ世界制覇!

イタリアの休日 - 極上南イタリア-ポジターノ - トラベーる

イタリアの休日 · メッセージを送る. 旅先でのお気に入り写真集・・・これから増やして行き たいと思います, http://www.trave-l.com/blog/nontan/. 極上南イタリア-ポジターノ. 旅行先 :, 南イタリア. 時期 :, 2004年5月 ...

MIXX バー&ラウンジ@ANAインターコンチネンタルホテル東京 - 楽園 ...

2014年6月2日 ... そうそう、これ、トレパンが自分で持ってきたわけではなく、イタリア人のスタッフが勝手に 持ってきた(笑)シェフなのかスタッフなのか分からないイタリア人の男性が席に座った時 から話しかけられ、どれが美味しい、これがオススメと料理を紹介し ...

ローマ一人旅|ヨーロッパ一人旅|ローマ フィレンツェ ミラノ ニース ...

2007年10月14日 ... エスプレッソマシンはイタリアのどこのホテルにもだいたい置いてあった。 最近は メディアで取り上げ ... イタリアはスリが多く、ローマでは地下鉄、スペイン広場、トレビの 泉などは特に気をつけなければならないらしい。 しかし、今回の旅行では ...

イタリア・ヴェネト州研修旅行3 - 地球浪漫紀行 世界紀行スタッフの旅の ...

2010年7月30日 ... かしこまったディナーは、どちらかというと苦手な私ですが、 かつての修道院でいただく 特別なディナーは、格別でした。 ツアーでは修道院貸し切りができないのが残念です。 オペラ歌手によるミニコンサートも開催。 さすがはイタリアですね。 つ...

イタリア土産| 世界一周御披露目帳 - アメーバブログ

2009年7月1日 ... 写真は、イタリアはフィレンツェで買った数少ないお土産のピンバッジです。 ☆ 世界一周 御 ... おいしいイタリアだっていうのに、思う存分イタリアンも食べられず、 美術館すら ... イタリアの朝食について、もっと知りたい気もしますが、 それはまだ ...

ロン毛とIT散髪屋| 世界一周ブログ(略してセカブロ)が帰国後、社会 ...

2007年10月31日 ... この散髪屋さんを経営するSさんとは僕が大学時代初めてヨーロッパを1人旅をしていた とき(当時22歳)イタリアのナポリで出会い彼はそのときは散髪修行&世界一周旅行をし ていた。 今は北区、王子で見た感じフツウの理容室を経営している ...

オバマ大統領誕生: shukran@world

2008年11月6日 ... イタリア人、イタリア系。スペイン人の名に多い Diego から。発音の感じからイタリア人 の蔑称に。 [Gator Bait/ゲーター・バイト] 黒人。黒人の子ども。フロリダなどワニ ( アリゲーター) がいる南部で。アリゲーターは白人ジャズ奏者 (ジャズ狂) の ...

ベニスでサッカー観戦 | 世界一周オンナ一人旅 & その後の日々 - Teacup

2006年7月2日 ... ホアンは2年前にイタリアに7ヶ月留学していたとかで、スペイン語、英語の他にイタリア 語まで話せてびっくりです! そんなホアンに連れられ、地元のお祭りに行ってきました。 出店みたいのが出てて、ホアンの友達、そのまた友達もやってきて、 ...

ユーレイルイタリアパスとキロメートルチケット 海外旅行Q&A(ヨーロッパ)

このたびイタリア(inミラノ、outローマ)に初の一人旅に行きたいと思っています...

世界の石畳| 世界一周御披露目帳 - アメーバブログ

2009年11月29日 ... なので、今夜は世界で出会った石畳のご紹介です。 石畳といえば、ヨーロッパ。 当たり前にあって、わざわざ写真にも撮っていなかったのがとても残念です。 次回行っ たときは、もっと写真を撮ってこよう! イタリアにて。 ☆ 世界一周御披露目帳 ...

世界一周(ギリシャ・トルコ)| 世界一周ブログ(略してセカブロ)が帰国後 ...

2007年6月19日 ... 日本 VS イタリア うーん悪くない! ... イタリア人はパスタと女以外は乗りが悪いのか なー? .... 北米□アメリカ、グアム、サイパン□ヨーロッパ□スイス②、イタリア②、 バチカン、フランス、モナコ、スペイン、イギリス、ギリシャ②、ドイツ、オランダ、 ...

リトルイタリーの巻

2005年7月1日 ... ご存知の通り、アル・カポネはマフィアの大ボスであり、イタリア系である。 ところが実際 のところ、現在のシカゴではイタリア系は少数派で、それなりに経済力をつけたり、同化 も進んで、この街からは大半が出てしまっているのが現状のようで ...

<イメージ> 名車とイタリア: 海外の情景 今日の一枚 - ココログ

2009年5月31日 ... 昨日のイメージ写真で映ったBMWで思い出しましたが、それと変わらずの名車と風景の 写真が今日の一枚です。 「ポルシェ・ケイマン」とイタリアにある世界最古の薬局「サンタ・ マリア・ノベッラ」のショップです。 でもここは、銀座。 最近(と言って ...

市庁舎 (Hotel de Ville) salut!~パリを楽しもう~/ウェブリブログ

2006年3月29日 ... 密集した建物の間に、突然現れるルネッサンス様式の壮麗な建築物と大きく広がる開放 的な広場。 一瞬、 “ここ、イタリア?” と錯覚してしまうけれど、実はこれ、 パリ市役所と セーヌ県庁が居を構える市庁舎。 都市機能の運営を司る建物 ...

ユングフラウヨッホ!| 世界一周御披露目帳 - アメーバブログ

2007年8月15日 ... もうイタリアなんですが、更新できなかったスイスの記事です。。 とうとう行ってきました、 ユングフラウヨッホへ。 ヨーロッパで一番高いところにある鉄道駅です。 青い! その高さ 3454m。もう空の青さが大気圏を越えてそうです。 ユングフラウパス ...

世界一周旅物語(せかたび)- イタリア(Italy) アーカイブ

でも「カツレツ」ってイタリア語でなんて言うんだろう?)そんな基本的なことも知らない まま(恥)、いきなりレストランへ。 イタリア人が食べていたら「あれ、くださいっ」って 頼めるんだけど、夕方の中途半端な時間帯のせいか、お客さんはスパゲティを食べて いる人、 ...

イタリアの旅に必要な言葉 GO AROUND THE WORLD/ウェブリブログ

2006年9月8日 ... GO AROUND THE WORLDの♯イタリアの旅に必要な言葉に関する詳細記事。( Powered by BIGLOBEウェブリブログ)数日前にきたときもおじさんに聞いた。「Domus Aureaは今日は見学できる?」辞書見ながらイタリア語で。おじさんの ...

真冬のイタリア - Firenze

フィレンツェにあるトラットリア「アニータ」というところを歩き方で調べていきました。ここは ランチを5.5ユーロで食べれるので是非ともお勧めです。しかも3皿で。地元の人も多く 集まる店ということもあって味は何を食べても外れなしでした。イタリア人の味覚は天才  ...

踊れないスチュワーデス物語 : 古代ローマ遺跡を巡る-バチカンから ...

2008年8月2日 ... 更新を楽しみにしておられるブログ読者の皆様の為に日常感やほんの気づいたことや、 感じたことを載せてみたり、イタリア旅行のパンフレットみているような写真の感性の好さ 。 接客業でも経験を積まないと、こういう気持ちの良いスマートな ...

イタリア、トラベログ、トラベローグ、TRAVELOGはみんなの旅行情報の ...

イタリア・旅行情報の発信サイトのトラベログ、トラベローグ、TRAVELOG 。国内、海外 の旅行記、旅行日記、旅行体験記、トラベル日記、旅行写真集、旅行フォトアルバムを、 無料で作れる旅行専門のブログ、サイト.

オリンピックの聖地 オリンピア| 世界一周ブログ(略してセカブロ)が帰国 ...

2007年6月4日 ... この見せ掛けバックパッカー野郎!! イタリア人はパスタと女以外は乗りが悪いのか なー?? ってことでここで競争するのは次回また来た時にお預けとなった。 またちょっと 宿題を残りつつギリシャ3回目の滞在を終えた。 次回はいつギリシャに ...

姑殺し|食べて歩いて遊んでスペイン! - アメーバブログ

2006年1月17日 ... 主人にイタリア語で聞いたらやっぱり名前はよく知らないけど、イタリア語でも確か似た ような名前だって~!!! きっとイタリア語でも. Ammazzasuocera(姑殺し) とかって 言うんだろーなー!!! ヾ(∇^〃)キャハハハo(__)ノ彡_☆バンバン ...

01a) プロローグ・出発まで - 2006年8月イタリア・フランス1ヶ月旅行のも ...

2006年8月1日 ... イタリア・フランス縦断。 テーマは、『挑戦』。 2006年8月、いつもこころにヨーロッパ史上 、最大の計画が遂に実行に移されるときがやってきました。 今回 □□と○○が旅先 として選んだのは、イタリアとフランス。 ヨーロッパの中でも、観光国の ...

口に合わなかったワイン | MSAT 幻のガイドからのメッセージ - Teacup

2012年2月3日 ... しっかりとイタリア産と記載されている。ドン・コルレオーネ、なんとかしてよ~→ 以前から おいしいChiantiを探していた。カリフォルニア産のSangioveseは悪くないので、無理し てChiantiを探さなくてもいいんだけど、やっぱ本場のChiantiを飲ん ...

ギリシャへのフェリー| 世界一周御披露目帳 - アメーバブログ

2007年9月10日 ... (写真の男性はたそがれ時にとっても絵になっていたイタリア人男性。 かっこいいね~ イタリア人♪) 応援ありがとうございます。。本日もどうぞヨロシクお願いします♪♪ バナー · 次の記事を読む ←クリックすると次の記事のページへ移動します。

予告編~ドイツ・オーストリア・イタリア周遊の旅 - 奥様は海外添乗員

2016年2月11日 ... すでに2月も半ば。なのに今更ですが、明日からの旅が今年の仕事始めとなります(汗) 。旅先はドイツからオーストリアを経てイタリアへ抜ける周遊コース。この時期ならではの 学生ちゃんたちの旅で、たくさんの元気なパワーをもらってきたいと ...

イタリアの好きな街 |リサのLOVEハワイ - アメーバブログ

2014年6月20日 ... フィレンツェはお肉(ステーキ). ※ちなみに、イタリアでの私のNo.1お食事が、 フィレンツェのステーキなのです. ヴェネツィアはシーフードのパスタ. これが美味しかった なぁ~! 合間に、ヴェネツィアで頂きましたパスタのお話をお届け致します。

南イタリア女一人旅 - トラベログ

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世界一周(米国)| 世界一周ブログ(略してセカブロ)が帰国後、社会 ...

2006年10月31日 ... うおーー!なんじゃこれ! ②はイタリアパスタとラーメンのコラボか? 他にも日本でお 馴染みの味を含めて. 10種類近くの種類があった! 日本でも発売すればいいのに! 日 清さん! ドイツ自炊用に即購入!試食が楽しみ! ナイフとフォーク.

イタリアの写真・旅行記

2016'3月27日 復活祭の日曜日 フイレンツェ 伝統行事 Scoppi del Carro「山車の爆発」を見学 フィレンツェの中心地、ドゥオーモ前で行われるある意味大胆な行事。 雨に見舞われることが多いというが、今年はうす曇から陽が差した。 クリスチャンではありませんが、イタリアの人々に交ぜてもらい 興奮グルグル巻きで大いに楽しみました。 レトロな風情の山車に付けられた無数の爆竹に点火から およそ10分間続く爆竹の炸裂。 こんな「優雅」な爆竹見たこと無い!という展開。 さすがフィレンツェ、爆竹もお洒落です。 最後に山車のてっぺんにある「旗」三基が全て開けば今年は豊作だという。 さて、今年の結果はいかに。

「モゥ~~」って聞こえてきた。 牛さんはこの中にいるらしい。

山車のてっぺんにつける豊作占いの「旗」も発見。 ここで取り付けず、会場へ別に運ぶようです。

真っ白い花 爽やかな春の訪れ

『プラート門が山車の出発地点』という情報しか掴めず googleストリートビューで、やっとこ探しあてた。 復活祭当日、朝7時過ぎに現場へ出かけました。 (今日からサマータイムにて、体内時計はまだ6時)

トラクターに牽引され、山車が格納庫から完全に出ました。 建物3階と同じ高さです。

爆竹がたくさん仕掛けられています。 メンテナンスと準備、たくさんの時間がかかることでしょう。

1年に一度のお披露目 着々とパレードの準備が進んでいきます。

きれいに飾られた牛たちもスタンバイです。 トスカーナの有名牛 キアニーナ

僕もいるよ~ 実はロバさんが牛さんを先導します。 宗教的に意味があるのかな?

もっと見ていたいけれど ドウォーモ前の会場へ先回りします。 9時には並ばないと良いポジションで見られないと予測。

9:05 会場に到着 最前列を狙いましたが既に2列目でした。 まあ、何とかなるでしょう。 爆竹点火は11時ですから、2時間立たねばなりません。 広場の向こう側にも同様に列があります。

9:30頃  パレードの第一陣が到着

右手=ドォーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会) 左手=サン・ジョバン礼拝堂 世界遺産を仰ぐ何とも豪華な会場に続々と騎士到着。

どんどん会場内に関係者が増えていきます。

10:00 山車を牽いて牛到着

サンジョバンニ礼拝堂前を山車が進みます。 騎士や姫は反時計回り 山車は時計回りで会場入りしました。

出発地点で見た花車も、女性に牽かれて到着。

山車がドォーモ前の定位置に到着。 牛さん達は行事終了後、山車を元へ戻すお役目があるようですが 一旦退場です(爆竹の音は聴きたくないでしょうね)

私の前列、左右、イタリア人女性のおふたり。 その間に立ち位置を決めましたが、「大丈夫?写真撮れてる?」と ジェスチャーで何度も気にしてくださり、とても嬉しかった。

10:15 警備の人員もさらに増えています。 どの警備の方も、観客と上手に会話されます。みんな楽しそう。 イタリア人は本当に会話上手のようです。

山車に最終のスタンバイが進む待ち時間に パレード隊が演奏をしてくれます(ちょっと音は外れているけれど・・・)

山車の最上部では作業が続いています。

特徴のある帽子が気になりました。 胸のワッペンから調べてみると「Alpini」 イタリア陸軍の一部で、イタリア北部に6つの山岳師団あり。 帽子に「2」とあるので、第2師団(ロンバルディア州)から応援でしょうか。

今年の豊作を占うという、三基の「旗」の取り付け作業中。

観客の希望に応えて「はい!ポーズ」 2時間の立ち時間、飽きる事なく経過していきます。

花車を牽いて来た女性がインタビューを受けています。

ジョットの塔の向こうから陽が射してきました。 青空が見えます。 この日、ドゥオーモ、ジョットの塔、クーポラ、礼拝堂は全てクローズです。

山車の爆竹に着火するのは「鳩」です。 ドゥオーモ内の祭壇から、司祭により、鳩が山車へ飛ばされます。 ・・・もちろん作り物ですが。 さあ、もうすぐ11:00、着火点にカメラを向けて待ちます。

ドゥオーモの鐘が鳴り響きました。 歓声が聞こえました。 腕をいっぱいに上にあげて 微かにモニターで確認しながら何度かシャッターを切りました。

運よく、カメラは鳩さんの姿を捉えていました。 これは小さくて目視は出来ていません。

直後、バン!バン!と爆竹の炸裂音が続きます。

煙がモウモウ  この時点で気がついた。 「あれ?前から2列目だったのに、さらに前に人垣が増えてる・・・」 準備関係者?達がいつの間にか観客に変貌したようです。

まずは、「シューシュー」と音を響かせながら 空に向かって火花が次々上がっていきます。

ドゥオーモは煙に包まれました。

次は風車のように、クルクル廻る仕掛け。

折角この場にいるのだから、自分の眼でしかと見よう・・・ だけど、カメラにも収めたい、後からも見たいもん・・・ って、手と眼が足りないでーす。

空へ無数に火花が上がります。

バンバンバンッ どんどん音が大きくなっていく。 みんな夢中で見入ります。

うわ~ 今度は枝垂れだ~

これで 山車は燃えたりしないの?と心配になる。

少しずつ間をおいて、次から次へと仕掛けが移っていきます。

今度は上向き、噴水のようです。

凄い量の細かい火花が飛び出して 向こう側が見えないほどです。

いよいよ、最上部へ点火。 クルクル火花がまわる。

結果、今年は2基の「旗」が開きました。 毎年、この仕掛けを担当される方々の緊張が想像も出来ません。 大変な重圧でしょうね。来年は三基成功しますように♪ そして伝統が継承されますように。

フィレンツェで復活祭に行われる「Scoppi del Carro」という伝統行事 350年もの歴史があるという行事。 レトロな山車に爆竹を仕込み、街の中心ドオゥーモ前で火を放つという。 山車だけでも関心あるが、それに爆竹とは意外な組合せで興味津々。 いつか見てみたいと思っていたが、チャンス到来。

きれいな花車が到着 全て白い花で飾られている。

花車にイースターエッグが飾られていきます。

皆さん余裕の表情です。 毎年参加されるのかな~

山盛りこんもり はい完成。

大人しいです。 女性が頬ずりするばかりに近寄っても動じません。

およそ1.5Kmほどの道のりを会場まで「山車」を牽きます。

大きく立派な牛は、山車の大きさに負けず映えてます。 4頭で牽いて行くようです。

お祭りの様子だけでなく準備から見てみようと思い 大きな「山車」の格納場所を調べた。 細長い建物の中、ここはどこ?

はい 順番の位置に並びました。

「本番だよ、しっかり頑張ろうね」と打ち合わせ中?

騎士達の前をお姫様がゆっくりと進みます。

騎馬警官が先頭です。 フィレンツェ:石の街に蹄の音がカポカポ響き渡ります。

復活祭 イタリア語では「PASQUA」パスクワ 十字架に架けられたキリストが3日目に復活したことを記念する祭事 毎年日付が異なる移動祝祭で、今年は3月27日。 この日付ならなんとか休暇3日と土日で組めそうだ! 就業後の深夜便、パリ経由で24日に現地入り。 27日に祭事見学の当日に帰国の途へ。

途中、ジッリにてカフェマキアートとパンにかじりつく カウンターで5分の朝食 でもこの上なき幸せ♪ さあ~ 会場へダッシュ!

チェーリエ・メッサビカ駅のホームです。まだ時間が早いせいか、お客さんは2、3人。そのうちに段々と集まってきて、最後は10人以上になりました。

駅の事務所には、こんな張り紙がぺたぺた貼ってありますが、だ~れもいません。5月18日から5月24日まで駅事務所閉鎖 と書かれた紙発見! なんと、切符は列車の中で買うしかなさそうです。

手書きの時刻表。左がレッチェ方面、右がマルティーナ・フランカ方面。14:14発があるのを確認してホッとしました。

あんまり暇だったので、サングラスが山ほど並べられたボードを片手に抱えてやってきた、セネガルのお兄ちゃんと世間話。といっても、向こうはフランス語とイタリア語しか話さないので、ほとんど会話にはなりません。わかったのは、セネガルでは仕事がないんだよ。という一文のみ。 観光地で自撮り棒とか安物の傘、サングラスを売っている輩はセネガル人が多数を占めているようでした。イタリアも景気悪いのに、どうしてまた? と思いましたが、言葉の壁は厚かった・・・ここにも仕事ないはずですよねえ。なんたって、南イタリアですからね。

先にやってきたレッチェ行に、セネガルのお兄ちゃんは乗り込んでいきました。おにいちゃん、フレーフレー! 幸運を祈る!

ようやく、マルティーナ・フランカ行きもやってきましたよ。単線だから、この駅で待ち合わせしていたんですね。

スッド・エスト線の内部の写真です。ややくたびれてはいますが、ごみなどはなく、清潔に保たれていました。

進行方向右側に陣取って、私はまたトゥルッリ探しに集中します。観光化されていない、普通の人たちが暮らしている、トゥルッリのあるイトリアの谷の田園風景は、イタリアの原風景のようで、車窓の景色をこんなに楽しんだのは久しぶりのこと。

おっと! これは廃屋かしら?

タイミングが悪く、相変わらず遠景しか撮れていませんね・・・

絵になる風景でしょう!?

アルベロベッロにも、屋根に絵が描かれたトゥルッリがありましたね。

緑の木立に囲まれて点在するトゥルッリ探しに夢中です。

途中駅チステルニーノ。陣内秀信さんの名著「南イタリアへ!」の中にも「丘の上の真っ白な町」として紹介があったので、存在は知っていました。

白い町があるのはこちら側かしら? 残念ながらちょっと見えないなあ・・・チステルニーノもまた次回のお預け!

私の見た範囲では、いくつかのトゥルッリの周りを、写真のような壁で囲んだ民家が多かった気がします。アルベロベッロのような長屋様式は、町中に見られるスタイルなのでしょうね。

新旧2軒のトゥルッリ民家。新居も夏涼しく、冬暖かいトゥルッリでというのが羨ましい。日本の伝統家屋は無くなる一方です。

代り映えしない写真ばかりで恐縮ですが、お陰様でプーリア州の田舎の景色を堪能いたしました。

30分後、マルティーナ・フランカに無事到着。マルティーナ・フランカはプーリア州ターラント県では、ターラントに次いで人口の多い町(それでも5万足らず)。夏のオペラ開催で、そしてバロック様式で装飾された扉を待つ、石壁で囲まれた美しい建物のある旧市街があることで知られています。

駅には、赤いバスが待ち構えていて、私を旧市街へと運んでくれました。 「駅に戻るバスは何時にどこから乗るの?」と運転手さんに尋ねると、「17時40分、ここで待ってな!」と言い残して、バスは行ってしまいました。写真に写っているあの赤いバスがそれです。「ここはどこ?」と訊きたかったけれど、全く余裕なし! さて、どこで降ろされたんでしょうか?

バスを降りたのは、片方が公園になった「9月20日広場」の前。地球の〇き方の小さな地図を見ても、よくわかりません。バス・ターミナルのあるクリスピ広場ではなさそうです。 弱ったなあ。とりあえず公園を一周してみましょう。

広場の向かいの公園の端にあったパッロキア・サン・アントニオ教会。創建は14世紀だそうですが、このファサードは1835年にネオ・クラシカル様式で建てられたもの。 内部には、ステファノ・ダ・プティニャーノが16世紀初めに作った、パドヴァのアントニオとキリスト教最初の殉教者聖ステファノの他彩色像があるそうなのですが、当然のことながらこの時間はクローズド。

おっ 広場の向こうにバロック調の門発見! バスの運転手さんはちゃんと旧市街の入り口で降ろしてくれたんですね。ここがどうやら旧市街の入り口のようです。

門をくぐると、インフォメーションが右手にありましたが、いただけるのは大変ちんけな地図1枚。これがコピーのコピーで、すこぶる見にくい! もう少しまともなものを置いて頂けませんか。マルティーナ・フランカさん! 写真右手の建物はドゥカーレ宮殿。ドゥカーレというとヴェネツィアを連想してしまうんですが、ドッジ(総督)はここにもいたんですね。具体的には、ペトラコーネ・カラッチオロという伯爵です。

カラッチオロ伯爵は、1668年に、カラッチオロ家の経済的及び政治的な影響力を強化するために、廃墟となっていたオルシーニ城の上に宮殿を建て始めました。中は部屋数300、客室、礼拝堂、劇場、中庭、そして厩舎まで備わっていたそうです。 現在建物はマルティーナ・フランカの市庁舎として使われています。中を見学できると知らなかったので、入場していません。ドゥカーレ宮殿の前には、想像上の動物たちがうごめくご覧の噴水がありました。

シエスタの時間なので、多くのお店は店を締めていました。とても静かです。

旧市街の道はすべて、建物と同じような色のタイルが敷き詰められていて、オストゥーニとは雰囲気が全く異なります。とても歩きやすい・・・

バルコニーのコーベルも、ここではごくごく普通の装飾で、レッチェで見たあれは何だったんだろうと思う位。3階建ての瀟洒な建物が続きます。悪く言えば個性に乏しい・・・

町で見かけた陶芸家フランチェスコ・ファサノのギャラリー モルスカヤの看板。私の好みのモザイク!

やがて道は、町一番の大聖堂があるプレビシート広場に出ました。

主祭壇です。こちらもまた、多色大理石を用いた祭壇で、18世紀の町の有力者がスポンサーとなって、ジェンナーロ・サムマルティーノが設計を、ジュゼッペ・ヴァッリアーレが彫刻を手掛けた傑作と言われています。二人は共にナポリ出身。

そしてその上のステンドグラスは、サン・マルティーノの「マントの伝説」がモチーフとなっていました。

主祭壇上のアーチの中央には、十字架を携えたキリスト像。

いつものように主祭壇に向かって右側から礼拝堂を見ていきます。多色大理石と思しきカラフルな祭壇で、石の文様を見ているだけでも、時間が経つのを忘れてしまいます。 木製のマリア像は新しいもので1919年の作品。彼女がつけている王冠はマルティーナ・フランカの金細工師ダニエル・リバルディがこしらえた本物の金製です。

こちらは、ローマ帝国アレクサンデル・セウェルス帝時代の殉教者(226年)で、ローマの守護聖人の一人でもあるサンタ・マルティナに捧げられた礼拝堂です。祭壇は上の礼拝堂と同じく多色大理石製で、1770年から1775年にかけて制作されたものです。 木製のサンタ・マルティナ像は、レッチェ派による作品で、同じく18世紀のものとされています。

もう少し近づいてみましょう。中央のニッチェにいる司教の祭服に身を包んだサン・マルティーノ像はステファノ・ダ・プッティニャーノにより1518年に作られたものです。 左右の寓意像は、ジェンナーロの弟ジュゼッペ・サムマルティーノの作で、右が裕福、左がチャリテイを表しているそうです。ジュゼッペはナポリでも沢山の作品を残しており、18世紀イタリアン・バロックの最高峰の一人といわれています。

左翼廊にあった聖体の礼拝堂は大変豪華な造りでした。1776年から85年にかけてナポリ出身のライモンド・ベッリが手掛けた礼拝堂で、多色大理石やスタッコで装飾がふんだんに施されています。 左右の素晴らしい文様の石の大きさにはびっくりです! 中央にはクーポラがあって、その先の祭壇には・・・

ドメニコ・カレッラによる「最後の晩餐」が置かれていました。絵画には1804年という作成年が入っています。 ご馳走が運ばれる前なのか、テーブルの上には白い皿が並べられていますが、何も盛られていません。赤ワインのボトルのみポツンとあって、それがとても目立っているように思われます。キリストの背後には忙しく配膳を行っているレストラン関係者? また、天使たちが舞台のカーテンの幕引きを行っていて、まるで劇を見ているかのような錯覚にとらわれます。ふむふむ、これは面白い・・・ そうそう、ドメニコ・カレッラは、上の写真でもクーポラの四隅のペンデンティヴ部分に4人の福音記者の姿を描いていました。

大きな礼拝堂を出て、お次はこちら。女性羊飼いの姿をした聖母像というのは、ここで初めて目にしました。羊飼いというイメージとは程遠い、金糸と刺繍が織り込まれた豪華な衣装に身を包んでいます。 彼女が羊飼いの杖の先で追い払っているのは黒い狼かな? 羊たちに襲い掛かろうとしている狼は、悪の象徴として描かれているようです。これまた興味深い・・・18世紀の作品。

左翼廊中央の礼拝堂には、大理石で作られた「柱に繋がれたキリスト像」がありました。こちらの礼拝堂は設計が主祭壇と同じジェンナーロ・サムマルティーノ、彫刻がジュゼッペ・ヴァッリアーレのゴールデンコンビです。 キリスト像はガリポリ出身の彫刻家ジャコモ・ジェノヴィーヴィの1622年の作品。この像は色々な意味でかなり強烈でしたよ。

左翼廊端にある、コンスタンティノープルの聖母に捧げる礼拝堂です。 祭壇画には聖母子、大天使ミカエル、ティエーネの聖ガエターノ、そしてその間に炎に飲み込まれる町が描かれています。おそらくこれは18世紀のマルティーナ・フランカではないかと解説には書かれていました。聖母子の乗る雲がその火をおさめてくれるのを期待しているかのようです。ドメニコ・カレッラの1764年~75年にかけての作品。

左翼廊左側の礼拝堂。 祭壇画は、チグリス川土手の大天使ラファエルと聖人で殉教者のトビアスを描いたもの。こちらもドメニコ・カレッラの作品です。

次は「聖誕」に捧げられた賑やかな礼拝堂です。祭壇は1764年に作られたもので、1777年ピエトロ・マウロ作の「羊飼いの礼拝」が背景となっています。 前面にはプーリア州のルネッサンス期の彫刻家としては最も著名な、主祭壇のサン・マリティーノ像の作者ステファノ・ダ・プティニャーノによって完璧な聖誕の場面が再現されています。幼子の背後で静かに草を食む羊たちの姿がとても印象的でした。

こちらは、15世紀ヴェネツィア出身の聖ジローラモ・エミリアーニに捧げられたオレンジと緑の石の配色が私好みの礼拝堂でした。エミリアーニは孤児たちの守護聖人とされているので、絵の中でも沢山の少年たちに敬われていますね。

ここでの注目は、美しい洗礼ボウルプーリア式? キリストの洗礼像が上に乗った本体もさることながら、背景の黄色がかった石の持つ魔力に引き込まれてしまいました。 流石に大聖堂だけあって、見どころ満載。次から次へと出現したカラフルな礼拝堂には、マルティーナ・フランカの人々の石に込める思いを見た思いでした。

もう一つ興味深いものを発見! 左側の最初と二番目の礼拝堂との間の柱にあったこちらのレリーフ。「雨を呼ぶサン・マルティーノ」です。18世紀の作品。 サン・マルティーノは長い間、この地方では雨乞いの聖人としても敬われてきたそうですよ。困った時の神頼みは、日本だけじゃあないんですね。

最後はアッドロラータAddolorataの礼拝堂。 日本語では悲しみの聖母 と訳されているようです。祭壇が作られたのは1784年ですが、その後改修が加えられ、彫像はナポリ派の職人による19世紀半ばの作品です。

こちらのステンドグラスには、1529年に突如出現したというサン・マルティーノの奇跡が基となっています。4世紀の人ですから、その生涯を含めほとんどが伝説に近いですが、死後の「奇跡」の数も飛びぬけて多い人で、イタリア、フランス、ドイツを中心に多くの信奉者がいるそうです。

カウンターファサードも凝っていますね。二つの大きなアーチとその上に刻まれた曲線の数々に、バロックの優雅さを感じます。

内部は一廊式。天井が高く、光が存分に入ってきていて、明るいイメージでした。右側に見える木製の説教壇は1830年の作。

大学宮殿前のオリーヴ・オイルやさん。どれもサイズがでかい! 左側の緑色の缶はなんと5リットル入りです。プーリア産のオリーヴ・オイルでは、一番有名なCaroliというメーカーの商品でした。

こちらが、町の守護聖人サン・マルティーノに捧げられた大聖堂です。 サン・マルティーノは日本では「ツール(フランス)の聖マルチノ」として知られています。4世紀の人で、ローマ軍の兵士だった時に、ガリア地方のアミアンという町で、半裸で震えていた物乞いに自分のマントを割いて半分分け与えたという伝説で知られています。実はこの物乞い、キリストだったという話も残っていて、このことがのちに彼が洗礼を受けるきっかけとなりました。 軍隊をやめた後、彼は多くの人に望まれてトゥールの司教となり、キリスト教の布教に精力を注ぎました。

サン・マルティーノ大聖堂を出て、プレビシート広場に出ると、目立つ建物はすぐ隣のパラッツォ(大学宮殿)にくっついた形のこちらの時計塔です。1734年の建造。 塔は4階建てで、各階ごとに建築様式とその装飾を変えています。

ロココ様式のファサード中央には、そのサン・マルティーノの伝説が浮き彫りにされています。 ファサードを手掛けたのはジュゼッペ・モルゲーゼとその息子たちで、前に建っていた古い建物の壁を新しい壁と入れ替えていくというやり方で完成させたそうです。 4つあるニッチェ(写真では3つのみ)には、右から、幼子キリストを抱いた聖ヨーゼフ、聖パオロ、聖ピエトロ、そして左端には洗礼者聖ヨハネの像が置かれています。

1階部分は、四方に円柱のある変わった造りでした。中央には日時計が置かれていて、マルティーナ・フランカの緯度40°42' 18" が書かれていました。

隣りの大学宮殿の入り口です。中世の時代、マルティーナ・フランカの大学は公共の利益の問題に対処するため、すべての市民に門戸を開放していました。ガイドブックによると、学問の場というよりは、いわば、町議会のような役割だったようで、誰もが自由な権利を持ち、ここで討論したり協議に参加したりすることが出来たそうです。前の建物は1743年の地震で崩壊したため、現在の宮殿は1761年に建て直されたものです。 扉上部にある半円形をした錬鉄製の装飾がこの町ではよく見ることが出来ます。ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿に立派なものがあったっけ・・・

中央部分のアップです。 あっ! サン・マルティーノの足の先がないわ! まずいでしょう。これは!

こちらが大学宮殿の全景。

プレピシート広場の先には、こんな優雅な弧を描いた回廊がありました。ここは、無原罪のマリア広場で、回廊は「ポルティチ」という愛称で市民に親しまれています。1854年にターラントの建築家ダヴィデ・コンヴェルサーノによって建てられました。町の聖職者ジャコモ・フェデーレが私財をなげうって、町の商業を活性化する場所として提供したものだそう。 広場では何かイヴェントが行われるようで、準備作業が進行中でした。

更に先に進みます。マルティーナ・フランカの建物の特徴、扉や窓の周りにひときわ目立つ装飾があるものが目につきます。日本でいう2階が一家の集まる居間になっていることが多いので、2階にはずらりとバルコニーが続きます。

勤労者互助会とでも訳すのかなあ・・・「共済組合」の扉も見事です。半円形の錬鉄の飾りも素敵ですね。

アーチのある古い町並み。良い雰囲気でしょう。

パラッツォかどうかはわかりませんが、立派な扉装飾の家が方々に見られます。

狭い道の向こうに何か見えてきたなと思ったら・・・

聖ドメニコ教会でした。むむむ・・・レッチェっぽい雰囲気ですねえ。こちらは、1743年の地震後に崩壊した聖ピエトロに捧げる教会跡に建てられたバロック様式の教会です。ドメニコ会の神父アントニオ・カンタロウプにより完成したのが1760年のこと。 解説板によると、教会の装飾は町の他のどの教会よりもレッチェを意識しているとありました。やっぱり・・・教会を建てたのはカルメリオ・デル・ヴェッキオとミケーレ・チトの二人。彼らはレッチェのバロックから多くのものをここに取り入れています。 幅の狭い道に面しているため、ファサードの高さを高くして、できる限りの装飾を行い、目立たせようとした意図が窺えます。

ファサードの低層部分にある二本の柱の柱頭に注目! レッチェで見たような華やかな擬人像が沢山彫られていますね。人というよりは羽の生えた天使か人魚というのが正解のようですが・・・柱頭の中央にあるのは柘榴の実だそうです。 中央の扉の上には、バチカンの紋章(交差する2つの鍵)、そしてその上にはドメニコ会の紋章の一つ(たいまつを口にくわえた犬)が王冠を支える二人のプット達によって、恭しく掲げられています。両脇にはホーンを持つ二人の少年たち。 二層部分中央の窓の周りは見事なアガンサスの葉で飾られています。

内部は一廊式で、中央にクーポラがありました。先ほど訪れたサン・マルティーノ大聖堂と雰囲気が良く似ています。

ドメニコ会は、マルティーナ・フランカにやってきた最初の修道会だそうで、祭壇画は、黒と白の特徴的なドメニコ会の修道僧服を身に着けた方々の絵が多かったです。 祭壇は、どれも多色大理石を用いた重厚感あるものばかりで、左右脇にアガンサスの葉が下に伸びて巻いている、下部が大きい台形をしていて、見る者に安定感を与えていました。

こちらも、ドメニコ会の創設者聖ドメニコを描いたものだと思うのですが、解説なしのため確認できませんでした。一番手前に描かれた人物が背中にしょっているものが何なのか気になるんですけれど・・・

お次は、面白い構図の祭壇画です。「聖ドメニコ」が描かれたキャンバスを広げているのは、なんと聖母ですよ! 左下と右下にも、別の聖母子、聖母子と聖ドメニコの絵画があり、全部で3枚の絵が一つになっているところにも画家のこだわりを感じます。ニコラ・リッリの作品で、画上に1681年と作成年が書かれていました。

確か右翼廊にあったこちらの祭壇には、「幼子イエスの神殿でのお披露目」とドメニコ会出身スペイン人の聖ヴィセンテ・フェレールが描かれていました。ピエトロ・デ・マウロの18世紀の作品です。

そして左翼廊にあったこちらが、この教会で最も有名な祭壇画 「ロザリオの聖母」です。先ほど大聖堂で何点か見たドメニコ・カレッラの作品です。写真ではわかりにくいですが、右上に聖母、左上にシエナの聖カタリナ、左下に聖ドメニコが立っています。1762年。 この祭壇は造りが大変凝っていて、緻密な装飾が全面に施されています。中央の祭壇画の周りに小さな楕円形の絵画が11枚はめ込まれています。更に高い場所にもう1枚。 両脇の柱と柱の間に立つ彫像の名前は、いろいろと調べましたが、わかりませんでした。

主祭壇は、多色大理石を用いて、両脇にプットの頭のついた豪華な大理石製ではありますが、一見大変地味です。祭壇画は聖母子を中心に、左に聖ドメニコ。右にいるのはシエナの聖カタリアかしら? 木像かと思われますが。そばまで近づけなかったので詳細ははっきりしません。

クーポラのテンペラ画は、控えめなタッチながら、よくよく見ると、一つの物語が浮かんできます。クーポラの縁にそって周りに海が広がり、船のマストが多数あることに気が付きます。これはレパントの戦い(1571年)中の「聖母による和解調停」を描いたものなのだそうです。 パッと見地味ですが、じっと眺めていると味わいが濃くなる絵でした。ペンデンティブは4人のエヴァンゲリスト達ですね。

カウンターファサードです。ファサード中央の窓はもちろん、すべての窓枠は内側も丁寧な装飾がされていたことが印象的でした。

これはどこにあったのか全く記憶なし。キリストと洗礼者聖ヨハネかな? キリストの子供は何を口にくわえているのかなあ・・・

聖ドメニコ教会の隣には、以前にあった修道院が残されていました。聖ドメニコ教会が建つ前にここにあった殉教者聖ピエトロ教会と同時期に作られた15世紀の特徴を持つ建物の一つとされていますが、正確な建築年にかかわる文書は残されていません。

キオストロには所々にフレスコが残っています。これらは、前述の1994年からの修復の際に見つかったものなのだそう。いまだに回復が図られていると聞きました。

柱は四角形のもの、六角形のもの、八角形ののものと様々。白い土台部分は修復の結果補強されたものなのかしら? 説明板には、「がっしりした多角形の列柱で囲まれた回廊」と書かれているのみでした。確かにその通りなんですが・・・

昔は、ヴォールトがすべてフレスコで埋まっていたのでしょうね。少々どぎつい色使いのように思えます。

こちらが、修道院の建物の奥にあったキオストロです。 修道院は1881年以降は市の管理下に移され、その後3階部分に建物を増築。一時は地方刑務所として使われていたそうです。1960年代になって、1階、2階部分にあった司法関連の役所の移転に伴い、刑務所は閉鎖されたとのこと。1994年になり、この元修道院(刑務所)の建物がマルティーナ・フランカの歴史的中心部を活性化し、文化的向上に資すると判断され、ようやく修復の機会を得ることが出来たそうです。現在は町の財団が管理を行っています。 それにしても、元教会の兵舎、刑務所の多いことに驚きました。

聖ドメニコ教会を出て、マルティーナ・フランカの旧市街巡りに戻ります。 こちらは旧市街で最大の大きさを誇るパラッツォ・ドメニコ・モトレーゼ。庭園と二つの出入り口を持っています。優れた医者だったモトレーゼが、レッチェで一番の腕の持ち主ダミアーニに依頼して1775年に建てた邸宅です。 窓枠の装飾も素敵ですね。

祠見っけ!

こちらはパラッツォではありませんが、摩訶不思議な女性の絵が壁にあったので1枚。

洗濯物を撮ったのではありませんよ。壁の小さな白い馬と黒い馬のレリーフが気になりました。

パラッツオより庶民の家が面白い。祠は夜には明かりが灯るようになっています。

モンテドーロの聖ニコラ教会。モンテドーロ(金の山)というのは、マルティーナ・フランカのこの辺りの地名のようです。なかなか味わい深い外観をしていますね。てっぺんがとがったアーチの扉、その上の小さなバラ窓、そして鐘楼が中世後期の趣を感じさせます。屋根は石灰岩から作られたレンガ製だそうです。 廃業しているのかな?と思いましたが、常に閉まってはいるものの、教会としてはまだ存続しているようでした。

18世紀としては珍しい集合住宅 ドメニコ・レ・マランギの家です。中の住宅は何度も改修されて今は見る影もありません。残されているのはこちらのゲートだけ。1731年の建造です。広い中庭は仕事場、倉庫、家畜小屋、子供たちの遊び用に使われていたそうです。

通りの向こうに、また一つパラッツォが出現しましたよ。

装飾は地味ですが、扉の材質の良さが分かる造りですね。居住者のいる家の扉は、どれもピカピカに磨き上げられていました。

町中が迷路ですから、こんな通りを行ったり来たり・・・

やや! 車の陰にまた面白い形の扉を見つけましたよ。

やがて、道は小さな門をくぐりました。

あらっ!  町の外に出てしまいました。この小さな門はサン・ピエトロ門。またの名をストラッチアータ門と言います。大変シンプル。実際他の3つの門と比べると見劣りするそうです。町の南西部に位置し、14世紀に作られたものです。近くにギリシャ人のサン・ピエトロ教会があったことからこの名前がつきました。 まだ旧市街見終わっていないので、一旦城門の中に戻りましょう。

こちらのお宅の扉には、1785年という作られた年が刻まれていました。

こちらはパラッツォ・マッギ。ギリシャ人の聖ピエトロ教会近くで見つけました。この扉は中庭への通路となっているようです。 花束が浮き彫りになっている左右の柱、扉上部優雅な曲線を描く中央の花と蔓草の装飾はとても手が込んでいます。注目はその下! 魔除けの仮面がありますよ! エルコラーノでも見ましたが、イタリアの伝統はこの家が作られた18世紀にも受け継がれていたんですねえ。

先ほどくぐったサン・ピエトロ門の名前の由来となったギリシャ人のサン・ピエトロ教会。こちらも中世の雰囲気が漂っています。ギリシャ人の入植は14世紀頃始まり、ターラントから内陸部に移住してきたギリシャ人用に、マルティーナ・フランカにはこのほかにもう一つギリシャ教会があるそうです。いわゆる東方典礼教会でしょうか? こちらの鐘楼も可愛いですね。建物はシンプルなルネッサンス様式で、内部は長方形の部屋一つのみだそうです。扉の上の半月形部分には、二人の天使が描かれたフレスコを見ることが出来ます。

だいぶ外壁はくたびれていますが、こちらは1778年に建てられたパラッツォ・カサヴォーラ。流線形の美しいバルコニーが特徴的です。左右にある小さめのバルコニーの束石は、花のつぼみのような形で、今にも花を咲かせようとしているかのようです。窓の形も、いかにもバロックといった雰囲気ですね。

住む人がいないのか、扉もすっかり荒れ果てていました。少々残念なたたずまいです。

奥に見える家は、神学者にして哲学者のパスクアレ・マッリが1748年に建てたパラッツォ・マッリ。扉周りは異なりますが、流線形のバルコニーはその前のカサヴォーラ家のものと似ています。

左右の柱の柱頭には、サテュロス(半人半山羊)像が彫られていました。扉の上部にもどなたかいらっしゃいますね。こちらはどなたでしょう? 扉の周りの三角柱の組み合わせが印象的です。

半人半山羊のサテュロス。扉に向かって右側のものです。

左右の小さめのバルコニーの束石がまた美しい・・・

カヴール通りには、こうした300年前の邸宅がいくつも見られました。

扉の上に、また魔除けのマスクがありましたよ。こちらはアンブロジオ・ファネッリが1748年に建てたパラッツォ・ファネッリ。この邸宅は手入れが行き届いていて、保存状態も大変良好。極端な誇張がなく、控えめながら上品な雰囲気が漂っていました。

帰りのバスの時間が気になりだしたので、ここだけは訪れたいと思っていたカルミネ教会に向かいました。この教会は、城門のすぐ外側に位置しています。 マルティーナ・フランカにカルミネ会がやってきて、城壁外側に慈悲の聖母教会を建てたのが17世紀初頭のこと。その後1614年には付属の修道院の建設を開始します。

修道院の完成後、修道士カルボッティが1727年から教会の再建を始め、現在あるこちらの教会は1758年に完成しました。設計者はいまだに論議の的になっていますが、ローマでボッロミニの下で働いていたレッチェ出身のマウロ・マニエーリではないかとされています。扉上の装飾にボッロミニの影響が見られると解説にはありましたが、??? 装飾で目立つ点といえば、扉上中央にある「カルミネの聖母」の像くらいでしょうか。ニッチェには、左にフランスのピエール・トマス、右にシチリアのアルベルト・ディ・トラバニの彫像がありました。共にカルミネ会出身の聖人です。

内部は一廊式。左右に礼拝堂、主祭壇の背後に数段高くなったギャラリーがあることが珍しく思いました。 内部の装飾はナポレオンによる支配が終わった1859年から65年にかけて、大々的に改装されています。両側にある柱は、多色大理石に見えますが、実は地元の石に彩色しただけのものだそうです。彩色されたスタッコ装飾の中で、最も劇的な効果を生んだのは、ドームにずらりと並んだ金色の六角形でしょう。入場したとたんにドームに目が行きましたよ。

主祭壇に向かって左側の礼拝堂を臨みます。あらっ! 手前から二番目の礼拝堂にどなたかいらっしゃいますね。

こちらの礼拝堂の祭壇画は「十字架降架」。暗い絵ですが、構図が素晴らしいと思っていたら、この絵は地元の画家による、ジュゼッペ・デ・リベラ作「ピエタ」のコピーなのだそうです。本物は、ナポリの聖マルティーノ美術館にあります。

というわけで、いつものコースではなく、先に目に留まった聖霊に捧げる礼拝堂にやってきてしまいました。この新しい彫像は、エンリコ・モロデール作のヨハネ・パウロ2世とカルカッタのマザーテレサ。2007年の作品です。 福者マザーテレサは日本語では「神の愛の宣教者会」という修道会の創立者ですがカルミネ会と何か関係があるのでしょうか? 祭壇にある彫刻も、エンリコ・モロデールの作品で、こちらは1995年の制作です。

翼廊にあったアヴィラの聖テレサにささげる礼拝堂です。祭壇画は聖テレサのTransverberazione 辞書を引いても出てこないのですが、おそらく「恍惚状態の聖テレサ」でいいのかなあ。彼女がエクスタシーを得た瞬間を捉えた作品のようです。地元の画家による18世紀の作品です。

先ほど、入り口から見たドームです。本当に美しい! これ以外に言葉が見つかりません。六角形のロゼットが段々と小さくなって、中央にある神の目のある天上世界へと導かれていくように見えます。

少々暗く映ってしまいましたが、こちらが主祭壇です。祭壇は先ほど訪れた聖ドメニコ教会と形状が良く似ています。18世紀の多色大理石製。 祭壇画にはマウント・カーメル(カルメル)の聖母、カルメル会の聖人シモーネ・ストック、それに預言者のエリヤとエリシャが登場しています。1760年にピエトロ・マウドによって描かれたものですが、画家はその5年後に自らキャンバスに13の楕円形を追加し、聖母のマウント・カーメルでの奇跡の数数を描き足したのだそうです。

カウンターファサードです。要所要所をスタッコで装飾していますが、華美とならない程度にと配慮されているようです。

ヨハネ・パウロ2世は、2003年10月19日、テレサを列福し、彼女を福者であると宣言しました。

ここでもやはり、この聖水ボトルが気になりました。方々で見ましたが、聖水盤ならぬ聖水ボトルについて解説があることはほとんどなく、どうやって使うのかを含めて、私にとって謎の多い建造物です。この教会の聖水ボトルも丸みを帯びた形状が大変柔らかな印象を与えてくれました。

ファサードの「マウント・カーメルの聖母子」に別れを告げます。 カルミネ教会が建っている場所から東に向かって歩いていくと、北側に緑の公園が広がっていました。

公園の先には、イトリアの谷が一面に広がっていて、まさに絶景! こんなに標高の高いところにいたんだと、初めて実感。ここからも、そこかしこにトゥルッリのある民家が見えて、のどかな情景を醸し出しています。

トゥルッリは壁に囲まれているので、こんな風にしか撮れないのが残念です。

北側正面には、トコロトンドの白い町がぽっかりと浮かんでいるかのように見えました。1時間もあれば歩いて行けそうな距離! 町の中心には 1825年に造られたマードレ教会が鎮座していました。ブラヴォー!

もう少しはっきりと景色を見たいと、公園脇の急坂の道を下りて行きましたが、今度は木立に隠れてロコロトンドは姿を消してしまいます。絶景を撮るのはなかなか難しい・・・ 坂の途中にあったのは、プロヴィデンツァ教会。16世紀後半には祖の存在が記録に残っています。修道士生活の創始者とされる大アントニオスに捧げられた教会でしたが、地元農民にとっては家族と家畜の病気治癒のために祈りをささげる場となっていたようです。特に帯状疱疹にご利益があったそう。

町に戻る途中にあったカルミネ会系列の受胎告知教会。シンプルなファサードと頂にある鐘楼は、今まで見てきた町の古い教会と雰囲気が良く似ていました。

マルティーナ・フランカでは、アンジュー家の支配時代の14世紀に作られた城壁に付随する円い塔がいくつか残っていますが、こちらはその一つトーレ・デル・セータ(柘榴の塔)。昔この辺りに柘榴の木があったらしいですよ。15、6世紀に改修されて、現在は民家となっています。高さ10m、直径は5.5m。

再度旧市街へと入っていきます。右側の扉は、パラッツォではなく、古い小さな病院の入り口です。扉の上の碑文によると、創立は1783年。町の裕福な聖職者がその家を売ったお金を元に、主に貧しい人々やよそ者を助ける目的で作りました。当時深刻な社会問題であった捨て子、望まれない子供たちの受け皿にもなっていたそうで、のちにこの病院の前の道は「孤児通り」と呼ばれるようになったとのこと。 扉のそばにぽつんと置いてあったスーツケースの中身が気になりましたが、まさかね!

病院の前を通り過ぎてしばらく行くと、今度は少し斜めに傾いたようなバルコニーが見えてきました。背後に並んでいる二つの扉の外枠がまた凝っていますなあ・・・

バロック時代に建てられたパラッツォはまだまだありましたよ。こちらはパラッツォ・アンコーナ。官能的なカリアテッドが出迎えてくれました。 そして、扉上部にある魔除けのマスクの迫力のあること! 炎をバックに、邪悪なものは一切通さぬとばかり、家を守っているように見えます。 しかしながら、皮肉なことに、実はこの家、幽霊が出るというもっぱらの噂ですよ。最上階の窓は開かれたことがなく、住む人もいないとのこと。「売家」の看板が出ていたのは偶然ではないのでしょうか?

幽霊の宮殿のすぐ近くにあったのは、イルカの宮殿パラッツォ・デルフィーニです。扉の上に建築年が1776年と記されています。イルカはこの家の紋章に登場します。 2階にあるバルコニーの、オレンジ色の飾りが気になりましたが、あれはオリジナルではなさそうですね。

夕方の強い日差しを受けて輝いているのは、聖ヴィート教会です。14世紀、アンジュー家のフィリップによりこの町が作られた時代に建造された、市内で最も古い教会の一つだそうです。 ファサードはアシュラー積みの石造りで、てっぺんに3つのアーチのある鐘楼がついています。古そうに見えますが、18世紀に内外の大規模な改修が行われています。傾斜地に建っていて、メイン扉へのアプローチがとても複雑な建物でした。

ドゥカーレ宮殿の前の噴水まで戻って来ましたよ。そばに説明板があったので読んでみたら、こちらは「イルカの噴水」という立派な名前がついていたようです。作られたのは1934年。私には想像上の動物にしか見えない、醜いイルカの子です。

サント・ステファノ門です。現在はサン・アントニオのアーチと呼ばれているのだそう。最初に作られたのは17世紀初頭ですが、バロック様式の凱旋門のような装飾が付け加えられたのは1764年のことです。 門の一番高いところには町の紋章である馬の姿があります。

ほぼ17時45分ジャストに約束通り赤いバスがやってきて、私をあっという間に駅まで運んでくれました。マルティーナ・フランカ滞在はわずか2時間半でしたが、主だった場所は回ることが出来たみたいです。コンパクトにまとまっていて、町歩きには最適な場所でしたよ。

マルティーナ・フランカの駅です。旧市街に行くバスは、写真にあるMiccolis社のバス停から出発しますよ。

マルティーナ・フランカはスッド・エスト線の主要な駅なので、構内にはたくさんの列車が止まっていました。といっても、運行本数は少なく、バーリ行が出発する18時37分まではまだ30分以上あって、時間を持て余してしまいました。

バーリの方向に一つ目の駅がロコロトンド、二つ目がアルベロベッロなので、相変わらずやることはトゥルッリ探しです。

おお~トゥルッリ大集合です!

ロコロトンドを写すわずかなチャンスが訪れたものの、結局ブレブレに終わりました(泣)。この町は、下の道をぐるりと回って、町を見上げながら歩いてみたいものです。

悔しいから、ロコロトンドの駅舎の写真を写してみたりして・・・

新旧の文化が入り混じった風景・・・

そしてお終いが、こちらの写真。多分新築に近いトゥルッリではないでしょうか?この先何百年たっても、この景色が引き継がれていくんだと確信を持った瞬間でした。プーリア州の旅もこれにて終了。明日はひたすら北へ。移動日です。 この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その52 フォリーニョで。

浅草の浅草寺へお参りに。(写真は以下3枚、お礼参りの時のもの)

煙、煙 もくもく

悪い頭と 悪い足が 「よくなりますように!」

浅草、どれくらいぶりだろ。 路地を散策。 でも急いで! 次は赤坂の日枝神社に行かなくちゃ!! ############################################ 余談・・ ***当初、還暦を迎えた年、2013年9月半ば出発、12月上旬帰国予定で、 準備と手配をしていました。 飛行機、列車、船、ホテルなどほぼ手配し終わった8月下旬 それこそ直前とも言える時期になって それまで自分の安易な予想とは違う、 より詳しい情報やアドバイスが得られました。 こんな内容でした。 秋から雨が多くなり、風も強くなるとのこと。 丘の上にある街などで見所が高所の場合、 冷たく打ち付けるような雨と 体を支えるのがやっとの強風の中での 最悪の観光になる可能性が大(観光どころでは無い) 美術館や教会なども3時とか4時とか早めに閉まってしまうらしいこと。 暗くなるのが早く、観光に使える時間が最悪、1日4時間短くなること。 田舎の町は観光客も少なく、町も人が歩いていない夕方以降で 道をきこうとしても、お店は閉まっていたり、人も歩いていなかったりで 迷った時に助けがなく 最悪の状況になる。 特に女性の一人旅はこの状況は避けた方がよいと。 悩みました・・・ 思い切って決断。 不安な条件を1つでも減らす為 この時期の出発は、取りやめようと。 旅行に最適な季節、半年先の4月からに変更することにしました。 そう決断した翌日から 怒涛のように様々な予約のキャンセルの作業に奔走・・ 2ヶ月半に及ぶ予約でしたから その作業も、抜け落ちが無いように気を張りました。 決行1ヶ月前にしてのことですから 列車や飛行機、返金不可のホテル予約などなど結構あり 約16万ほどのキャンセル料金がかなり発生しました・・・(痛い) でも、心の中は どちらかというと 残念というよりは・・ 「ふ~、行かなくて済んだ!」と・・ 何度も安堵していました。 余命が6ヶ月延びたみたいな感じで・・(⌒-⌒; ) キャンセルの作業が終わるとすぐさま 改めて気を引き締めて 予約仕切り直し! また1からのリスタートです。 季節が良いと、ホテルもそれまでの予約より高額だったり、 予約がすでにいっぱいで 人気の宿泊先は容易に取れないことに驚きつつ。。 また、売っている旅行本や雑誌などは情報が限られていたので ひたすらネットでブログを読み漁り、現地の情報や知識を集めたり グーグルマップをコピーして切り貼りした手製の地図を作ったり 防犯のための情報を収集したり 簡単海外旅行会話本やラジオで語学を少し勉強したり ・・ 半年先 まだまだ先 っと思って安心していたのに、 あっという間に4月になりました。 そして、バンジージャンプのカウントダウンのように 無情にも出発の日が迫ってきていました。 ***渡航に際し、注意したり準備したこと*** *緊急事態の時のために大使館や領事館の電話番号や住所を書き留めました。 *バゲージは機内持ち込み用の最小のものに。 →列車の段差が急なので、荷物を小さく軽くしないと大変。移動を楽にする為。 *現金やカードは分散。防犯上も安心な、足に巻くポシェットタイプを左右に。(東急ハンズで1200~1700円くらい)(くるぶしとふくらはぎの間にセット) 左足には、カードとパスポートと10,20,50ユーロ札で各10枚ずつ(右ききだから) 右足には50,100ユーロ各20枚。(足元から盗むことは難しいし、カードや現金を取り出す時も、屈めばいいのでスマートだし、簡単。←海外旅行の必需品として10年愛用中)(念のためにコネクト部分などは外れないように、安全ピンで補強。二重に固定する) *斜めがけのバッグに少額の現金。 分散して。 *普段使いのお財布には、太めのチェーンを付けバッグの内側に繋ぐ お財布は仕切りが4つあるもの(東急ハンズで購入)5cm×10cm 布地 お財布の中は、仕切りごとに 50ユーロ×1 &50セント、20ユーロ5枚&20セント、10ユーロ5枚&10セント、 5ユーロ5枚&5セント、 1ユーロ10枚&1セントと2セントの区分け。 探さずすぐとり出せるようにしました。 *支払いの時も、なるべく財布を外に出さず、バッグの中で出し入れ。 *捨ててもいいような安いジャケットと気に入っていないコート持参。 *脱いだり着たりが 簡単なものを用意 *季節が移っていくごとに、要らなくなった服は捨てていくようにしました。 身軽になっていくので、バケージの中に土産のための空席が出来ました。 *お土産は旅の途中では小さな物しか買わないようにしました。 ちゃんとしたお土産、嵩張るお土産は、 旅行の最終のローマで買うことにしました。 (バルサミコ酢、オリーブオイル、調味料、服、装飾品、お菓子、バッグ、チーズなどなど) *友人からの(お土産ものの)頼まれごとは、予めお断りしちゃいました。 荷物を増やせないし、探す事で時間を作ったり苦労するのはストレスなので。 (皆、気持ちよく受け入れてくれて、お土産話だけでいいよ、と言ってくれました) ***持って行ったもの*** パスポート/ カード/ホテル予約コピー/ 列車や飛行機のEチケット/ 保険証書/ ユーロと円(帰りの電車賃5千円)/ 家の鍵/ パスポートのコピーと写真2枚/ 最軽量カメラ/ iPad / 各充電器 / 変圧器 / 電子辞書 その他(☆マークは役にたった物) ☆眼鏡2つ(紛失予備、実際1つ紛失)/ ☆目覚まし時計/ ☆マスク/電池 /☆おしぼり/☆化粧品 / ドライヤー /サプリメント/ テープ / ☆扇子 / ☆日傘(6月は暑く 海外の旅行者もお土産用の扇子を買ってあおいでたり、中国の人達はほぼ、雨傘をさして日差しを防いでいた。日本の日傘のデザインは羨ましがられたし褒められたat ベネチア)/ サングラス/ スカーフ/着替えの 服、シャツ、靴下、下着、各3枚/ パジャマ/ ☆シャンプーコンディショナー(気に入ったものがあるので) ☆インスタントコーヒーのジプロック小分け(コーヒー欠乏症。夜も何杯も飲みたいので、極小のジプロックに一杯分。これだけでかなりの量。現地で買い足したけれど、ビンのまま持ち歩きはかさばるし重たい。グラム単位の軽量化の戦いの旅ゆえ)/ レインコート/☆手鏡と拡大鏡 / ☆安全ピン/ ☆ハンドクリーム/☆ 割り箸、プラスティックスプーンナイフフォーク/ ☆ジプロック大中小/ 洗濯板(なん100)/ ☆ビニール袋(洗い物、洗濯済みなど区分け)/ポストイット/アルミホイル/ 警報ブザー/帽子/ 日焼け止め/ 蚊取り線香/ ドライフーズのお味噌汁/☆喉アメ/ ☆メモ帳/ ☆風邪薬/ 正露丸/ ☆バンドエイド/☆ ペンとサインペン/腕時計安物2個(高額と思われるものを身につけると金品を狙われやすいので)☆輪ゴム/ヘアーバンド/☆物干しロープ/☆洗濯物用ピンチ/ICレコーダー/☆ボディタオル(体を洗う泡立て用)/☆軽石 ***以下お土産用(旅の途中でお世話になったかたへお礼に差し上げ用)*** ☆柿の種ワサビ/☆和紙の折り紙/和紙/☆meijiチョコレート(日本のチョコ評判凄く良かったです)/☆ヨックモックチョコ((旅の中盤には粉々に・・でもその美味しさはとても喜ばれました)☆手づくりのスワロフスキーのネックレスなどなど装飾品/ ☆キャンディ(とても喜ばれました。美味しかったみたいです)/☆☆ボールペン(ゼブラのサラサ 0・5) / ☆☆模様や動物などのシール(ナン100)

ローマからフィレンツェ行きのユーロスターはかなり空いていたのに、フィレンツェからベネチアの車内は満席に近い感じ。 ほぼ定刻通りにサンタルチア駅に到着♪ ホテルはアッバッツィア! 駅を出て左方面へ。お土産屋さんなどがたくさん出てます。すぐに路地を左に曲がり到着。 思ったより近い!(実は一回通りすぎた) これならスーツケースを持って歩いても楽チンだわ。

中庭へ出てみました~。 屋根つきのテーブルセットの他に、中央に籐っぽいチェア… 緑が多く、カサカサと何か動いた?と思ったら、トカゲ(イモリ?ヤモリ?)や鳥がいました。

ランチは娘がガイドブックで選んだトラットリア アッラ マドンナへ。 まずは、ヴァポレットの48時間チケットを購入。 どの乗り場かわかりづらいけど、「リアルト」って書いてあるので、乗り込んでみることに。 読み取りの機械にPASMOみたいに軽くタッチ。 自動のゲートがある停留所とない所がありました。

天気が良かったので、リアルト橋付近のレストランでは、テラス席でランチする人が… (⌒‐⌒)

娘はクモガ二が目当てらしい^_^; ほぐしてあるので、食べやすい!

前菜の盛り合わせ! う~、シャコがデーンと中央に… レモンを絞って、サッパリとしておいしい! (シャコ以外(--;))

海の幸のリゾットは出汁?が出ていて とっても美味しかった!

パスタはボンゴレを注文。 ボンゴレも美味しく頂きました。 食事の後は、お土産屋さんなどに立ち寄ったり散策しながら一旦ホテルへ。

ディナーは、トラットリア アイ プロメッシ スポーズィへ。 リアルト橋の1つ手前で降りたかったのに、 急行に乗ってしまったのか、またリアルト橋まで来てしまった。 少しウロウロ探して、路地へ。 路地で地図を広げている人も… 迷うよね~。

8時前に到着すると、すでに賑わってました。 立飲みしている人も。 前菜の盛り合わせを注文。 種類は10種類くらいかな? 野菜や魚などかなりのボリューム!

イカスミのパスタとフリットも注文。 初めてイカスミに挑戦するも、惨敗(;o;) ちと、苦手かも… 生臭さとかはぜんぜんないんだけど(T_T) フリットはう~ん、しょっぱ! かなりの塩気でした。 塩の分量間違えたのかな~…(T_T) お酒のおつまみには良いのかもね! お店を出て、ジェラートを食べながらホテルへ。

ベネチア二日目も朝から良いお天気(*^^*) 今日は、ムラーノ島とゴンドラ乗船のオプショナルツアーに申し込んでおきました。 ブラーノ島にも行きたかったんだけど… ツアーが終わった後、自力で行けるかな~。 乗り換え場所はバッチリ調べてあるし! ガイドの方とサンマルコ広場で待ち合わせ。 リアルト橋回りで行くのかと思いきや、逆方向へ。 大海原に出てるけど、これに乗って大丈夫なのか~?と、ちっとビビる。

ガイドの方と合流すると、なんと、今日は私達二人だけということです\(^^)/ ガイドさんを独り占め(*^^*) 写真を撮ってくれたり、助かりますm(__)m

まずはゴンドラ乗船! 乗り込む時は少し揺れますね。 ゆっくりと細い水路に進んでいきます。 曲がり角もぶつかりそうで、ぶつからない。 ベテラン!

橋の下を通る時は、屈まないと頭がぶつかっちゃう…

ありがとう! ゴンドリエさんとパチリッ。

続いて、水上タクシーでムラーノ島へ。 湾に杭が打ってあり、数字が書いてあります。ちゃんと、制限速度があるそうです。 違反すると捕まる(車と同じ!)そうです。 天気が良くて、日差しが暑いくらいです!

ムラーノ島はガラス工芸の島。 ガラス工房へ。 あっという間に花瓶や、馬を作って見せてくれます! かなりのドヤ顔です。 みんな、ブラボー!と拍手>^_^< 2階には、ガラスの作品がたくさん! とても高価な物もあるので、ぶつかって落としたりしないよう、気をつけながら見学。 素晴らしいベネチアングラスがあったけど、 家では使い道が思い当たらず(お値段も素晴らしい(T_T))。 アクセサリーや、小物など手軽に購入できるものから、すぐに計算できないくらい高価な物も。 大きな置物などは、ホテルや企業などが購入されるそうです。 写真に収めたかったけど、写真はNG、残念…

水上タクシーで本島に戻りランチへ。 お店の名前がわからず残念ですが、サンマルコ広場近くのリストランテ。 ここのボンゴレがとってもおいしかった! バターをたくさん使っている感じ。 ガイドさんにブラーノ島に行こうと思ってると話したところ、時間も時間だし、乗り換えもあり、う~ん時間的にオススメできないとの事なので、残念ながらブラーノ島はまたの機会に!

イカとエビのフリットも揚げたてでサクサク。 今度は塩加減もバッチリ!美味しい!)^o^(

食後は、ティラミス。 トロ~リしていて美味しい~。 ランチやディナー付きのオプショナルツアー はいろいろな国で参加してますが_(._.)_ 味は、う~ん…な事が多いので期待していませんでしたが、ここは、ディナーでも来たいね!と娘と話したくらいおいしかった (^_^)/

レストランを出て、また散策。 お~、ベネチアのカーニバルの衣装かな? 素敵~(☆∀☆)こういうの着てみたい! カーニバルの時期はこういう衣装を着た人達でいっぱいなんでしょうね! カーニバルの時期にも行きたいけど、寒さと雨が心配なのよね~。

ヴァポレットで移動中、COOPの看板を発見していたので、寄ってみることに。 サンマルコからの帰りにローマ広場で降りて、ローマ広場からすぐの運河に面しています。 ヨーグルトだけでもこれだけの品揃え! チョコレートやクッキーなど私は会社へのお土産を。 娘もサークル仲間やバイト先へのお土産を調達。 自宅用にKnorrのインスタントリゾットを。 チーズと大好きなポルチーニをたくさん買い込み… お水も購入したら、かなり重い(T_T) あ、お買い物袋は別料金でした。 自宅に帰ってから、お留守番していた旦那にリゾットを作ってみたところ、分量通りに作ったのに、かなりのアルデンテ。 旦那に二度見されました←固い!って言いたいんでしょ。(T_T)(T_T) 作り方通りに作ったもん! 少し蒸らすか、水の少し多く?すればいいのかな~。

ランチしたお店の名前もわからないし、辿り着けるかわからないので、ディナーはまたまたマドンナへ。 夜のリアルト橋付近。 本当にキレイ☆ミ

ランチと別の物を頼めばいいのに、またクモガ二と(クモガ二が気に入った娘)リゾット(リゾットが気に入った私)、カツレツを注文。 食後は、マドンナ風ケーキとカプチーノ。

帰国の日の朝は霧が! サンタルチア駅近くは、向こう岸が見えないくらい。 霧のベネチアも雰囲気があっていいかもしれない。 マルコポーロ空港に着く頃には少し日差しが射してきてました。

サンマルコ広場がお散歩コースなんて、 贅沢だわ~

まだ朝早いからか、観光客がそれほどいないので、お散歩中のワンちゃんが結構いました。

チェックインを済ませ、お部屋へ。 狭っ!ドアを開けたらすぐベッド。 ま、立地重視だから問題ないけど、 どこにスーツケース広げるか考えてしまうほどの狭さ。 このコンパクト感は日本人しか耐えられないんじゃない? 私達のお部屋はバスルームが少し広めな作りみたいです。

マルコポーロ空港は、とてもこじんまりしていてカフェとbookショップ兼ちょっとしたお土産が買えるお店があるくらい。 税金を返してもらう為、TAX FREEのカウンターで手続き。 パスポートとチケット(webチェックインのスマホ画面でもオッケー)を提示し、後は、「ゲートの中で!」だそうです。 ゲートの中ってどこだよ!と思いながらも、 チェックインし、搭乗ゲートへ。 アリタリアのお姉さまに税金手続きの場所を教えてもらいました。 ゲートを入ってまっすぐ進み左前方に両替所で¥19000返金してもらえました\(^^)/ やった~。 ローマで乗り継ぎですが、時間に余裕がないし、混んでることもあるので(5年前は時間がなく断念)マルコポーロでやっておいて正解!

サンマルコ広場が見えてきました! ホッ(*^^*)

ローマ フィウミチーノ空港で乗り継ぎ。 すぐに搭乗! あ~ぁ、ベネチアは特にあっという間だったな~…(T_T)やっとヴァポレットの乗り方のコツもわかったのに。 今回の旅行はベネチアの天気が一番気がかりだったな~。 旅行の1週間前からは毎日、イタリアの天気予報をチェック! ベネチアの天気を確認して、オプショナルツアーを予約したのが出発の2日前。 英語がイマイチ(私の方がまだマシ)な母娘なだけに、日本語のオプショナルツアーは高くつくけど、スムーズに旅行を終えられた気がする。 またベネチアも来たいし、ベネチアから出航し、クロアチア→ギリシャ→トルコの船旅もしたいな~。(600ドル弱でできるみたい) でも船旅は時間かかるし、仕事そんなに休めないしな~。 今回も期末の時期に平日まるっと1週間お休みしちゃって本当に会社の方々に感謝です。 初めての旅行記で思いついたままダダーッと書いてしまい読みづらい点も多いかと思います。 最後まで読んで下さりありがとうございました。 少しでも参考になれば…(*^^*)と思います。

【番外編】 成田に到着~。あんまり寝れなかった。 成田は鰻屋さんがたくさんあるらしいので、帰るついでに寄って帰ります。 坂道の両脇にお土産屋さん、漬物屋さん、鰻屋さんが。 鰻のいい匂いが! 駿河屋さんに入りました。 待ち時間の間に新勝寺へ。 事故に巻き込まれたり、体調を崩したりすることなく、無事帰宅できたことの御礼参りしました~。 その後、かなり待って鰻を! イタリアンもおいしいけど、やっぱり和食が美味しいわ~(*^^*)(*^^*)(*^^*) その後、1週間は煮物など和食三昧の我が家でした(・・;)

 爆弾を仕掛けたベンティヴェンガは、犠牲者の遺族から見れば、間接的な加害者になる。実際、一部遺族から訴えられ、当初過剰防衛による18ヶ月の判決を受けたが、後に無罪となった。1983年にはようやく重い口を開き、著書の中で述べている。「あの事件の結果、関係のない三百人以上の人々を巻き込んで、ナチの犠牲にしてしまったことは弁解の余地もない。心底から申し訳ないと思っている。しかしナチ親衛隊を襲撃したことは、決して間違いではなかったと今でも確信している。ナチの暴虐に対しては屈服したら終わりであり、我々の負けになる。暴虐を容認してしまうからである。戦争を早く終わらせるため、あらゆる機会をとらえて戦いを挑み、それによって最後には勝たねばならなかった。それはつらく悲しいことだった。でもそれはパルティザンの宿命だと思っている」。 *反対側から見たラセッラ街

 3月23日14時過ぎ、ローマ中心部トレヴィの泉

 ラセッラ街、そしてカラカラ浴場を横目に

アルデアティーネを訪れた。前者には事件の痕跡は残っていないが、後者は廟が建設され、慰霊の場となっている。ムッソリーニの生誕地プレダッピオと並んで、この時の旅で最もインパクトのあった場所だ。 *プレダッピオ訪問記 http://4travel.jp/travelogue/10940231

335の棺の前では胸が締め付けられると同時に、写真を撮ろう何て気は起こらない。犠牲者の冥福を祈るしかない。

 本項目は、本文で触れた以外に「母と子でみる イタリアパルチザン」(草の根出版会)を参考にした。      (2002年7月28日訪問) もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693

*ローマで泊まったホテル

*ポルタ・サン・パオロ広場

*広場に会った石碑。「1943年9月8日から1945年5月8日まで8万7千のイタリア人が自由のための犠牲になった」趣旨の記述。

*出発前 広島駅新幹線口にて 1990年と同じTシャツ着てる!

*ここからは2千年前と現在が混在するローマの街並みのをどうぞ(フォロ・ロマーノ)

*中央奥がコロッセオ(円形競技場)

*コンスタンティヌスの凱旋門とコロッセオ

*ローマではバチカン市国、スペイン階段、真実の口などの観光名所を巡ることもなく、また前述のようにアルデアティーネ訪問の際にはカラカラ浴場も見学せず、アッピア街道をじっくり見る、カタコンベを観光することもなく、訪問の翌日にはフィレンツェを素通りして「ライフ・イズ・ビューティフル」のゆかりの地、アレッツォに向かった。 アレッツォ訪問記は、http://4travel.jp/travelogue/10216394

からほど近いラセッラ街で大音響とともに爆裂音が轟いた。爆弾は医学部学生のベンティヴェンガらによって仕掛けられたものだった。33人のナチス親衛隊が死んだ。  激怒したヒトラーは報復で、24時間以内に50倍のイタリア人処刑を厳命する。イタリア占領軍司令官ケッセルリンクは、恐る恐る10倍にするよう申し入れ、ようやく許可され、政治犯、反ナチファシスト、ユダヤ人を中心に処刑者リスト作成は急ピッチで進められた。335人が集められ、ローマ市南部アッピア旧街道沿いにあるアルデアティーネの洞窟で処刑された。前項目で紹介した「誰がムッソリーニを処刑したか」(講談社)には、処刑の模様も書かれているが、あまりの悲惨さにここに書き起こすことは出来ない。 *砂布巾注 六甲の文字が見えますか?

アッピア街道を歩いて、

*現イタリア建国の父でもあるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂が見えてきた https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC2%E4%B8%96%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%A0%82

FAO(国連食糧農業機関)前のオベリスク

帰国 あの頃の可愛さは一体どこへ?????

 ジョズエ5歳の誕生日、ドーラが留守をしていた間にグイドとジョズエが姿を消した。慌てて2人を追いかけ、純粋なイタリア人だった彼女も望んで収容所に向かう。

*砂布巾注 グランデ広場

 2002年の6月にはサウンドトラック盤と原作を購入したが、7月にはロケ地を訪問した。映画に何回も登場するグランデ広場は、何とも趣のある傾斜した広場。そしてサンフランチェスコ教会周辺では、雨の中2人で歩くシーンなどが撮影された。ほかにも何カ所かロケ地が書いてあったが、

ユースホステルが予想外に遠かったこともあって、全ては見学できなかった。(初めて映画を見た日 2001年1月21日,ロケ地訪問 2002年7月28日) もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693 関連項目「ユダヤ人問題の最終解決~ヴァンゼー会議」 http://4travel.jp/travelogue/10200560

 グイドはジョズエに「これはゲームだ、一等の賞品は本物の戦車だ」と説明し、信じ込ませよう(ドイツ語を滅茶苦茶に訳す場面は笑ってしまう)とする。戦争も終わりに近づき、ドイツ軍の撤退が始まる。ドーラを探しに行くグイドだが…。  最後に「これが僕の物語」のナレーションが入っているので、実話を映画化した ものだろう。多少現実離れした面もあるが、グイドがイタリア人らしく楽天的な中にも必死になっているのが伝わってくる。ジョズエが隠れていたロッカーの前を通る時、ドイツ兵の歩き方(グースステップ)を真似ている姿は、涙を誘う。完全なハッピーエンドでないのは残念だが、グイドの家族への愛情を感じさせる映画だ。どんな時でも希望を失ってはならないことも教えてくれる。

マテーラを過ぎるとこのような広々とした牧草地が広がっていました。 どこまでもこのような風景が続きます。

どこまでも果てしなく続く広い牧草地です。 そのうち畑地のあちこちに農家や農舎が見えるようになると、それらの建物がトゥルッリに少しづつ変わっていきました。 いよいよアルベロベッロに着くんだなと予感させてくれます。

夕方アルベロベッロに到着しました。 一旦ホテルに荷物を置いてツアー全員で街歩きです。今宵は町のトゥルッリのレストランで食事です。 最初に着いたのは町の中心ポポロ広場です。広場に面して市庁舎が建っていました。 すでに広場の街灯には明りが灯り、夜のとばりがおりようとする直前でした。

ポポロ広場から眺めた商業地区リオーネ・モンティのトゥルッリ集落です。 すでに日が落ち、夕焼けになっていました。 アルベロベッロのトゥルッリ集落は商業地区のリオーネ・モンティと居住地区のアイア・ピッコラ地区に分かれています。 ここポポロ広場からは商業地区のトゥルッリ集落を眺める事ができます。

リオーネ・モンティ地区のモンテ通りは照明が灯り、明るく浮かび上がっていました。

さらに赤く染まり、そして夜の帳が下りてきました。

空が赤く染まっていきます。

ポポロ広場からインディペンデンツア通りに下りてきました。

添乗員さんの話では、この通り沿いの店でイタリアのフレッシュチーズ「ブッラータ」を売っているそうですが、今日は夜で店はもう仕舞っているそうです。 朝一番なら買えるそうなので、息子は買いに行くといってました。 「プラッター」はイタリアのプーリア州で生まれたチーズです。薄膜の中に濃厚ミルクを閉じ込めたチーズで賞味期限が短いため幻のチーズと呼ばれているそうです。

リオーネ・モンティ地区(商業地区)を今から散策します。 シーズンオフの夜ですから私達以外には観光客の姿はありません。 通りに明りは灯っていますが、開いている店も少ないようです。添乗員さんが一件一件各店の取り扱い品を紹介して下さいました。

そうすると私達の話声に誘われて店に明りが灯り、中から女性が飛び出してきました。「いらっしゃい。どうぞ見て行ってください。どうぞ、どうぞ。」って。 次々店の扉が開かれて急にその辺りが明るくなりました。 添乗員さんが慣れたイタリア語で「皆さんとこれから先まで行くの。そしたら折り返して店に寄るからね。」と、こんな感じで話したそうです。 この時期西洋の観光客はめったにここには来ないそうです。夏の時期でないと来ないんですね。 冬のシーズンオフに来るのは東洋人だけ、日本人、中国人、韓国人、そして台湾人です。 そして最初に冬の時期に来始めたのは日本人です。そしてそれが韓国や中国に波及していったんです。 ですから日本人はアルベロベッロの経済には多大な貢献をしているんです。ここの商店は夏期シーズンだけが商売の時期だったんですが、冬に日本人が来てくれるようになって冬も商品が売れるようになったんです。 それともう一つ、日本人女性の「陽子さん」の店に日本人が寄るようになってさらに日本人の集客が増え、結果として周囲の店の売り上げも増加しているんです。 周囲の店は陽子さんが店を開ければ日本人が来る合図なので陽子さんの店にあわせて店を開けるそうですよ。

そしてここが「陽子さんの店」の内部です。 実は店は閉まっていて明りも落ちていました。店のガラス窓には「陽子の店」と書いてあったので店の確認はできました。 添乗員さんが店の外から声を掛けられて、ようやく明かりが灯り店に招き入れられたのでした。 店の中やトゥルッリを見て行って下さいと言われたものの、店と居住空間が混在しているためズケズケ入る訳にもいかず、写真を撮るのも遠慮してしまいました。 店内の写真はこの一枚だけ。ニンニクがぶら下げられている下に小さな出っ張りがありますが、ここは家の中で飼っていた家畜の綱を止めていた場所なんだそうです。 この後屋上からトゥルッリの景色を見て下さいと勧められました。

陽子さんの店の屋上から見たトゥルッリの景色です。 屋根の上に書いてある印はその家の目印、日本でいえば家紋のような物でしょうか。

周囲の様子を写真に収めて回りました。屋上はさほど広くはありません。 陽子さんは商売人です。この間、店内の商品の試食をいくつか何人もの女性のツアー客に勧めていました。 財布のヒモは女性が握っているのでまずは女性客に猛アタックです。 陽子さんの動きを見ていましたが男性客には余り勧めていませんでしたね。むろん私も息子も試食は勧められませんでした。 まあ、男は余り雑貨は買わないですからね。こんなもんでしょう。

私は商品の話より夜景を撮る方がいいですから。 遠くに見える教会はサンティ・メディチ・コズマ・エ・ダミアーノ教会です。後ほど自由行動の時間があるので、この教会に行ってみたいと思っています。

こちらは新市街方面でしょうか、トゥルッリが少ないですね。

ぐるっと回って再度トゥルッリの密集場所に戻りました。 この後店を出て、サンタントニオ教会の所まで一緒に行って、その後自由行動に移り集合は午後7時ポポロ広場だそうです。

再びモンテ通りを上がっていきますが、この辺りのトゥルッリの景色は素敵でした。良く晴れた青空に白いトゥルッリが並んだ写真を見ますが、多分このあたりの風景だと思います。

静かなトゥルッリの夜。

歩いているのは私達と地元の人だけ。

トゥルッリの夜景を私達だけが独り占め。

サンタニオ教会が見えてきました。 真ん中の建物がサンタニオ教会かと思いましたが、教会はその右の建物でした。

ここがトゥルッリの教会サンタントニオ教会です。トゥルッリと同じ白壁で造られていました。 では、中に入ってみましょう。

イタリアの教会にしては実に簡素な造りです。白い柱や壁はトゥルッリの内部そのままですね。 主祭壇と両脇にマリア様と聖母子像があるだけでした。 信者さんが集まって祈りを捧げられていましたので、邪魔にならないようにそっとノーフラッシュで写真を撮らせていただきました。

主祭壇を斜めから撮影。

サンタントニオ教会で解散し自由行動です。再集合はポポロ広場に午後7時。では来た道を戻りましょう。 すでにツアーの皆さんは先を歩いていました。

このトゥルッリは大きいほうです。店舗ではないようですが、一般の人がお住まいなんでしょうか。

色々な店が明りをつけて扉を開き、私達を招いていますよ。 ここで息子が買い物をしたいので別行動したいと言ってきました。 自立が芽生えてきたようです。私はいつものように観光中心。いい写真が撮りたい気分MAXです。

ここのトゥルッリの並びは好きですね。気に入ったところがあると角度を変えたりフラッシュを光らせたり、ノーフラにしたりと何枚も写してしまうのが私のいつもの癖です。 で、ここも何枚か同じような写真を撮ってしまいました。

上の写真を若干アップにしてみました。

さらにアップにするとこんな感じになりました。

ここも素敵です。こんな場所には若い頃に愛しの人と二人で来てみたかった。もう今では無理な話ですね。

トゥルッリの町は昼間の姿は美しいのですが、夜はどこかもの悲しく郷愁をさそわれるようなそんな素敵な町でした。

この通りも素敵でした。

そしてお店が並ぶモンテ通りに戻ってきました。 店の明りはまだ灯ったままです。ここには多くの店がありますがお互いに競合しないように品揃えをしているんです。 アルベロベッロはマテーラと同じように南イタリアでは特に貧しい村でした。領主が徴税を逃れる余り領民に簡素な家しか立てる事を許しませんでした。 当然重税を掛けられていたと推測できます。村人はお互い助け合いながらそれに耐えてきたんです。 協力しないと生きていけない環境が自然に連帯の意識を高めてきたんでしょう。それが今の店づくりにも生きているんだなと感じさせられました。 ワイン専門店、人形の店、トゥルッリの置物屋、雑貨店、香辛料の店、ペーパークラフト専門店、などなどなど。まだ沢山ありました。 皆可愛い店ばかりです。女性の皆さんでしたらきっと気に入ることでしょう。 私の息子はもうここの虜になったようです。(笑)

静かな夜です。もうツアーの皆さんの姿はありません。 私1人のためにこの風景が用意されたような、ふとそんな思いに浸ってしまいました。 何とも不思議な時間でした。夜の街歩きもまた格別です。

本当に綺麗な町です。ゴミ一つ落ちていません。町中につきものの喧騒もありません。 明りは灯っていても街全体が静かに眠っているかのようです。まだ夕方の6時10分なのに・・・。 私の足音だけが聞こえてきます。何とも不思議な気分です。夢を見ているような、そんな感じが続いていました。

この店は煌々と明りに照らされていました。トゥルッリの屋根と大きな煙突。

そしてこの細い通りも素敵ですね。

石畳の道が明りに照らされて素敵です。

この風景、気に入りました。

で、ここで写真を撮っていると後ろから息子が声を掛けてきました。 「父さん、お土産買った?まだならいい所あるよ。姉さんなら絶対気に入る所。家族の土産は父さんが買うんでしょう。俺自分のと友達のしか買ってないから。」 「なに、お前○○や○○には何も買ってあげないのか?」「うん、それ父さんの役目。」「お前に小遣い渡しただろう?何買ったんだ。」「うん、あれ遠慮なく自分の物と友達の物を買ったの。陽子さんの店でオーガニックのオリーブオイルを買った。それとペーパークラフトの店で素敵な飾り物があったよ。まだ沢山あるから見て見る。姉さんきっと喜ぶよ。」 アルバイトで貰った賃金は衣服に使ったというのでしぶしぶ小遣いを渡したんですが、自分の物にばかり使うとは思いませんでした。ここで一応厳しく指導しておきましたが、どこまで理解してくれたかは分かりません。 私は今回は食料品と決めていたのですが、息子が家族の土産を買っていないというんで急遽買い物することになりました。

確かに息子に勧められた店は女性が好むような物で一杯でした。ここで妻と娘のものを購入。いずれも10ユーロ前後なので求めやすかったです。 この店で目にとまったのが「天使の人形」。全て手作りだそうですが顔の表情がとても素敵です。ペーパークラフトなのに見た感じは布と変わりません。これは値がはりました。機内持ち込みの手荷物にしないといけないでしょうから購入するかどうか迷いましたが、結局は荷物が増えるので買わない事にしました。 家族用の土産を買って再度町歩きです。

息子はあちこち見たいとのことでまた別行動です。

こういう景色も気に入ってます。

屋根の上にはアルベロベッロのニャンがいました。 丁度そこに息子がやって来たので二人でニャンを撮影しました。

ニャンをアップで。この猫アルベロベッロに相応しいのかも。胴体は白く顔と尾は茶色と黒。トゥルッリの白壁と屋根みたいな色でした。

リオーネ・モンティ地区のモンテ通りを下りてくると大通り、Largo Martellottaに出てきました。

この通りはアルベロベッロの大通りです この通りを渡ってポポロ広場に向かいます。

モンテ通りを振り返るとこんな感じでした。

この階段を上がるとポポロ広場です。

ポポロ広場に到着。広場から夜のトゥルッリ地区リオーネ・モンティ地区を眺めるとこんな様子でした。 午後7時までまだ時間があります。息子と別れてサンティ・メディチ・コズマ・エ・ダミアーノ教会に行くことにしました。 息子は付近をブラブラしたいそうです。

ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りと通りの奥に聖メディチ・コズマ・エ・ダミアーノ教会が見えてきました。

教会の近くまで来ると車の交通量が減少しました。 このあたりではもう静かな通りです。

ライトアップが夜空に映えて美しいです。

教会の正面は二つの鐘楼とファザードにはイエス様と使徒のレリーフが飾られていました。 そして見難いですが、二つの尖塔の真ん中にある十字架は二人の天使が支えています。

ファザードのレリーフです。遠目で見るとイエス様と12使徒かと思いましたがイエス様と6人の使徒、6人の天使のレリーフでした。 石材は大理石でしょうか?夜目にも美しいレリーフでした。

教会内の主祭壇です。この教会の主祭壇も簡素な物でした。イタリアの教会はどこも色大理石で造られ豪華絢爛ですが、このシンプルさが返って新鮮です。 訪れた時は主祭壇の右隣の礼拝室でミサが行われていましたので、迷惑にならないように静かに内部を鑑賞しました。

教会の祭壇とその上の天井です。

聖書記念堂内部の聖人像です。

この彫像は聖コズマと聖ダミアーノ。この聖人は医者だったので足元に七つの道具が置かれているそうですが、見てもどれが道具かわかりませんでした。 この彫像は宗教行事の行列の時市民に担がれて町を練り歩くそうですよ。

再びファザードのレリーフ。

二つの鐘楼が美しい教会でした。午後7時までにはまだ十分時間がありますが、ポポロ広場に帰りましょう。

ポポロ広場に建っている市庁舎です。 この市庁舎は2階建ですがとても小さい建物です。言われなければ市庁舎とは気がつかないでしょう。

ポポロ広場です。

広場の中にある木陰のベンチ。 広場の2か所にありました。

こちらはもう一か所の木陰のベンチです。

ポポロ広場。

市庁舎です。

ポポロ広場に戦勝記念碑だと思われる碑がありました。碑の側には機関砲が置かれていましたので、そのように想像しました。

宿泊したホテルから、次男と二人でのんびりと歩き始めました。

ナポリの街はこんな狭い路地が入り組む街でした。

露店の八百屋さん。こんなお店がいくつもありました。

ナポリのイメージにぴったりの路地裏。

何気ないいつも通りの陳列なのでしょうが、旅行三昧には新鮮でとてもおしゃれな感じがしました。

いくつも同じようなお店がある中で、何故だろうかこの1軒のお店にひかれて、長居をしてしまいました。

いくつも見せてもらいました。 写真は撮りませんでしたが、すぐ裏にある工房も見せていただきました。

このお店の全体の雰囲気に惹かれたんだろうな。 すべてこの方の手作り。とても繊細で美しい。 お土産で10個ほど買いました。ケースのガラスが割れないように梱包して頂き、飛行機で捕まらないように、次男のスーツケースも拝借の上、バックパックなど、計5つのカバンに2個ずつ入れて日本にお土産として持ち帰りました。 いまでもお気に入りのひとつはリビングのテレビのすぐ横に鎮座しています。 「日本に輸出したら売れるかなぁ」と3回聞かれたことも、今では懐かしい思い出です。「どうかなぁ?」って答えておきました。

こんな路地裏に確り車も通ります。

やっぱりナポリは路地が面白い。

ケーブルカー(フニコラーレ)にも乗ってみました。

観光用ではなく、市民の足だそうです。

フニコラーレで下界まで戻ります。流石は市民の足。多くの方々が利用していました。

こんなトンネルを通ります。

下界に降りてから王宮にも立ち寄りました。 こちらも時間の兼ね合いで、外観見学のみ。内部は王宮歴史的博物館になっているそうです。

サンタルチアにも行ってみました。凄く風が強くて寒く、すぐに退散しましたが、もう少しゆっくりしたかったです。 それにしても、このバスかなり斜め。

ヴェスヴィオ山が拝めます。 もう少し天気が良ければ良かったのですが。。。

サンタルチアにある卵城です。 もっとゆっくり観て回りたかったです。本当にこの時は時間に追われてました。

ナポリからローマに戻り、日本へ帰国します。

少々小汚いですが。。。 とても楽しく次男と観光ができました。 最後のナポリは特に駆け足になったしましましたが、全体感はつかめましたので、次回来ることがあれば、今回の経験をもとにゆっくり観光したいと思います。 これで「次男と二人でイタリア中部旅行」はコンプリート。 本当は全9回にしたかったのですが、全8回で完了となります。何卒ご了承の程。

おいしいチーズあります。 おいしいパニーニあります。 おいしいワインあります。 ごゆっくりどうぞ。 と日本語で書かれたパニーニ屋さんで、まったりと昼食を取りました。安くてヴォリュームたっぷりでした!

さて、再び街歩きの続きです。壁にめり込んだような柱、微妙なカーヴを持つバルコニーが古い歴史を物語るこちらの建物、どうしてこんなひどい落書きをする人がいるんでしょう。心が痛みます。

バルコニーに花が植えられた小道を通りすぎて、午後一番に見つけたのは、・・・

こちらの福音記者ヨハネ教会とその修道院です。教会としてはロマネスクでおとなしめ。左にある小学校の建物の方がよほど年季が入っているように見えます。 ベネディクト派の修道院で、創建は1133年。16世紀から18世紀にかけて何度も改修が行われた結果、創建当時のものは殆ど残っていないようです。ロマネスクっぽい鐘楼は16世紀の建造。

通りすがりの個人宅があまりに素敵だったので、撮らせてもらいました。

階段の欄干も邸宅にふさわしい品格あり。

窓枠も装飾がさりげなく施されていて素晴らしい。中はすっかり改装されているのでしょうが、外観は古いものにこだわるイタリアの人達の思いが伝わってきます。

ちょっとした広場に出ました。ペルッツィ広場です。左側の建物は16世紀に建てられたパラッツォ・ジャコニア。レッチェのモンシニョールだったアンジェロ・ジャコニアが建てた宮殿です。 奥に見えるのは、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(パオラの聖フランチェスコ修道院を兼ねているようです)。

フィレンツェの貴族ベルッツィの遺贈として1524年に建築が始まった教会ですが、その後度重なる修復を行っていて、ここもオリジナルの要素はほとんど残っていません。ルネッサンスとバロックが入り混じったような外観ですね。 修道院の部分は、イタリア統一後、刑務所、兵舎として利用されてきたようです。 ファサードの二層目の窓から空が見えるということは、ひょっとしてファサードだけ残っているのかなと思いましたが、そばにあった解説板に、祝日にミサが行われると書いてありましたので、教会は一応現役!

中央扉の周りの装飾は大変綺麗でした。半円形部分には天使たちから王冠を授かる聖母子・・・・あらっ! 幼子キリストの首がない!! ひょっとして聖母の足元に落ちているのがそうかしら? ブラックユーモアですねえ・・・ エンタブラチュア下の馬に乗ったキューピッドの装飾が細かくて鮮明です。 扉の脇の2本の柱の装飾も凄いですね。よーく見ると、ところどころに怒ったような怖~い顔があるのに気が付きました。

階段も一段ごとに異なったタイルを使っていますよ。お洒落~!!

またまた、未完成と思しき教会にぶち当たりましたよ。コンスタンチノープルの聖母教会、またの名をサンタンジェロ教会と言います。アウグスティヌス修道会により1061年に創建された、レッチェでも一番歴史のある教会の一つです。 1663年におなじみの、ジュゼッペ・ツィンバーロの設計により再建されたとされていますが、アウグスティヌス会とツィンバーロの関係は希薄で、完成直後から欠陥が次々と露呈したところから、これを疑問視する声もあります。

果物や花々で縁取られた低層部分のカーブのあるニッチェ、二層部分の平らなニッチェともども、空っぽでした。

二層に分かれたファサードのエンタブラチュア下を装飾の帯が流れています。上の列には、アルファベットを抱えたプット、ライオン、鷲らのパレードが続いています。 こちらは向かってファサード左側部分。

こちらが右側部分です。 下の列には大きな鷲=アウグスティヌス会のシンボル、大司教の帽子=ローマ教皇のシンボルなどがちりばめられています。柱頭も凝っていますよ。アカンサスの葉の上にはうつぶせに近い恰好で柱を支える男たち。これもカリアティードって呼ぶのかしら?

中央扉の上部の拡大です。 二人の女性(天使?)をお供に中央に立つのは聖母子像。背景部分の王冠の透かし彫りの緻密さに、また口あんぐりです。 アーチ部分にぶら下がったプット達の乗る太い花綱もインパクトありますね。

緑色のブロンズ製扉は1750年の制作です。 いやあ~ ここまで凝りに凝ってファサード未完というのは惜しいですねえ。レッチェの町の教会は殆どが同じ時期に集中して作られたもの。その時期は潤沢だった資金がその後続かなかったということの表れかもしれません。

どっちに行こうかな? 旧市街のこういった無秩序に伸びている道大好き!

ふと見上げたら、鯉のぼりと目が合っちゃった。昨年のルッカでお目にかかって以来です。

お次はギリシャ(人)の聖ニコラス教会。ギリシャの教会として知られています。同じバーリのサン・ニコラ(ミラのサン・ニコラ)に捧げる教会なのですが、一般のカトリックと区別するため、わざわざギリシャ(人)がついています。 中には入れませんでしたが、内部はビザンチン様式だそうです。正教会ではなく、ギリシャ起源のカトリックなのだそう。ローマでも見かけた東方典礼教会ということかしら?。こちらは主に信徒はアルバニア系住民のようです。

ギリシャ起源のカトリック教会は規模の小さなものを他でも見かけましたよ。奥に見える建物はあまり教会らしくない、質素な佇まいですが、「ギリシャ教会」キエザ・グレカと書かれた札がありました。 この辺りは、アルバニア系住民が多い地域なのかもしれません。

裏通りをなおもうろつきます。イタリアの政治家ミケーレ・デ・ピエトロが住んでいた家 というパネルが貼られていた建物です。

どうやら現在は市役所関連の建物らしく、内部の案内図が置いてありました。凝った造りなので、写真を撮らせてもらいました。アシュラー張りのレッチェ石が大層美しい!! ヴォールトも凝っています。

今まで見てきたレッチェのバロック建築も、17世紀の建設当時は、このように太陽の光を受けて煌めいていたに違いありません。 いやあ~ 犬も歩けば棒に当たる。本当に素敵なものを見せていただきました。

ウンベルト1世通りに出ると、ひと際美しい装飾を施した完成度の高い建物があったので入ってみることにしました。 ガイドブックにも何の案内も出ていませんでしたので、その時点ではなんという建物かわかりませんでした。ひょんなことから、本日名前が判明しました。パラッツォ・アドルノ。1568年にガブリエーレ・リッカルディが建てた、カルロ5世配下の帝国海軍将軍だったジェノヴァ人アドルノの邸宅でした。

政府関係の建物のお向かいにも、ご覧の壮麗な建物が続きます。 サンタ・クローチェ教会に続く以前の修道院の建物はパラッツォ・チェレスティーニ レッチェ県の県庁になっていました。 1549年、カルロ5世(ハプスブルグ家)が城壁の要塞化を行い、それに敬意を表して凱旋門が建てられたことは前回書きました。 城壁が強化されるのに伴い、その敷地内にあった修道院を新たに建て直す必要が生じ、同年この地に新しい建物の建設が始まりました。

建築家リッカルディ(こちらの建物も最初の建築家はリッカルディでした!)はこちらの建物と併設するバシリカ、回廊の工事に取り掛かりましたが、建物が出来上がるまでに実に146年かかっています。 最も工事が進んだのは1600年代になってからでした。そしてここにまたわれらがツィンバーロ、そしてもう一人ジュゼッペ・チーノが加わったことで、17世紀末にようやく完成にこぎつけたのです。 1階と2階の窓枠の装飾をご覧ください。デザインが隣同士異なっていますね。これぞレッチェとも言うべきバロック様式てんこ盛りです。

目の前にある扉を中心に左右対称の作りとなっています。石の積み方はクリア・カット工法と呼ばれるもので、柱の輪郭がはっきりと浮き立つように見えます。 1階の窓枠がより線を強調した厳格なイメージであるのに対し、2階の窓枠はより洗練された華やかさを感じます。解説によると、1階部分はツィンバーロが、2階部分はチーノが担当したのだそうです。

中央扉の上部のデザインです。ここにも花綱が見られますね。

悲しいかな! 県庁のパラッツォに続くこの工事中のファサードは、本日の目玉サンタ・クローチェ教会ではないですか! またしても修復中から逃れられなかった私です(泣)! 前の通りが狭すぎて、全体像はこの方向からしか写せなかったのですが、これじゃあ、意味ないですね。

こんな事情なので、本来の姿をお伝えすべく、こちらの写真をウィキペデイアよりお借りしました。 先ほどの県庁(元修道院)の建物と同じく、新しいサンタ・クローチェ教会の工事は1549年に始まり、完成を見たのは146年後の1695年のことです。レッチェバロックの至高の体現とも呼ばれる壮麗なファサードをとくとご覧ください。 1606年から始まったファサードの工事の陣頭指揮を取っていたのは、リッカルディ(ファサード下部)とツィンバーロの父アントニオ(中央ポータル部分)でした。そしてアントニオの後継者チェザーレ・ペンナ(ファサード上部とバラ窓)、アントニオの息子ジュゼッペ(ファサード上部の装飾)が見事に完成へと導いたというわけです。

工事で見えない部分は飛ばします。上から参りましょう。なるべく不細工なものを入れたくなかったのですが、致し方ありません。二層目上部のエンタブラチュアには、先ほどサンタンジェロ教会で見たのと同じような、プット達が碑文のアルファベットを運んでいる場面が続いています。 その下のバラ窓の装飾ときたら、もう表現するすべがありません。内側も外側も、ハスの花、プット、フルーツでびっしり! 左右の柱の柱頭にも注目! 左側の羽を広げたこうの鳥の足元には、ひなが3羽親鳥を見上げています。細か~い!

最後は6本の柱の柱頭部分です。順不同。解説不能。 こちらは男性陣。下半身がうろこに覆われているから人魚?海神? これもグロテスク様式(文様)ですね。

全くなんだか分かりません???

男性陣もう一つ発見!

こちらはグラマーな女性たち。やはり足がないなあ・・・

羽が生えているけれど、天使というよりは鳥でしょうか? スフィンクスでしょうか?

お終いは少々こわもての仮面でした。噂には聞いていたけれど、実際に目の当たりにすると、すごい迫力です。首が痛くなるほど、上を見続けていました。これだけのものをすべてファサードにのっけるって、どういう考えからなんでしょうね? 工事中で写真が撮れなかった部分があるので、全体の偶像数はもっと多いと思われます。 時刻は午後2時40分。教会の内部に入るのには、開場までまだ時間があるので、街歩きを続けて後ほど戻ってくることにしましょう。

個人的な趣味で参りますよ。お次は、二層部分のバルコニーを支えるコーベルの彫像とその下のエンタブラチュアの部分です。 左側から順に写していますが、彫像はダブって写しています。 髭を生やした男性はトルコ人だという話でした。1571年のレパントの海戦で、キリスト教国(実際は教皇、スペインとヴェネツィアの連合軍)がオスマン帝国に対して勝利をおさめたことが背景にあるようです。

右側の男性は、トルコ人らしいですね。罰として、一生担いでいろ!っていう感じ。

想像上の生き物も満載です。

あらら・・・右側の男性はズルをして肩で支えていますよ。

エンタブラチュアのどんちゃん騒ぎは一体何でしょうか?教会にあるまじき裸のオンパレードです。グロテスク様式っていうのかな?

はい。右側まできましたよ。お楽しみいただけましたか?

お隣のチェレスティーニ宮殿に戻って、中央の扉を潜り抜けます。

リッカルディが最初に作った回廊部分に出ました。ファサード部分の装飾に比べると、大変地味で落ち着いた雰囲気。これはまたこれで良いと感じます。

更にその先の通路を抜けると、25ルチョ通りを越した先に市民公園Giardini Publiciが広がっていました。

数十メートルおきに、どなたかの胸像が立ち並んでいます。本当に彫像の好きな国だこと!  ここはベンチで一休みするのにはもってこいの公園です。遠くに見える東屋の緑の屋根が大層綺麗でした。

誰も見ていないのに、しぶきを上げ続ける噴水。

ここにもいらっしゃいましたよ。イタリア中にこの方の銅像があります。ジュゼッペ・ガリバルディ氏。

赤い鮮やかな大きな花が目につきました。

公園を抜けた先にあったのがカルロ5世城。四角形の四隅にハートをくっつけたような形をしています。カルロ5世が城の軍備を強化して要塞化が完成したのが1549年でした。サンタ・クローチェ教会に隣接した修道院は以前はここにあったんですね。 残念ながらこの城も目下修復工事が行われていました。

中に入ってはみたものの、通せんぼされていました。まあ、元々入場する気はなかったのですが、修復中ばかりなのは気が滅入りますなあ。

で、次に向かった場所が、ドゥオモ広場と並んで、レッチェの町の重要な広場である聖オロンツォ広場。てっぺんに聖オロンツォが乗ったローマの円柱が目印になっています。

何層もの地層が積み重ねられてきたこの広場は、古の時代から市民の憩いの場でした。商業市場ピアッツァ・デイ・メルカンティと呼ばれていたのです。 広場のかなりの部分を占めるローマ時代の円形闘技場も残されていました。それがまた大変規模が大きく、良好な保存状態であることにも驚いてしまいました。 周囲をきょろきょろ見回しながら、この闘技場を一周することにしました。

教会を見つけると、どうしてもそちらに目が行ってしまいます。広場の一角にあったのは、小さなサンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会。バロック様式で1590年に建てられました。中央のペディメントには聖母子、その上にプットたち、低層部分のニッチェにはピエトロとパオロの彫像が置かれていました。 14世紀に描かれたという聖母子のフレスコが教会の宝となっているそうです。

サンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会のすぐ裏のアカイヤ通りにあったこちらの地味な教会はサン・ジュゼッペ教会(パドヴァの聖アントニオ教会を兼ねる)。扉の装飾を見るだけのために、ちょっと寄り道。

円形闘技場が見渡せる広場のテラスにあった街灯はえらいことになっていました。鍵、鍵、鍵・・・

闘技場の半分以上は、先ほどのサンタ・マリア・デッラ・グラッツェ教会や商店が立ち並んでいる下に今も埋まったままなんですね。

円形闘技場が作られたのは、アウグストゥス帝からハドリアヌス帝時代にかけての1~2世紀、観客席は五層構造で、25000人収容可能だと言われています。20世紀初頭、イタリア銀行建設工事の際に発見され、考古学者コジモ・デ・ジョルジの監督下で発掘は1940年まで続けられました。

折れたオベリスク? 説明がないからわからないなあ・・・

左側に見える建物は、1592年に建てられ、1851年まで使われていた市役所の建物。

また、外野席の下や競技場の外側に、環状の廊下が少なくとも2本あったことも確認されています。

観客席へと通じる部分や、地下に残された建物も発掘されたようです。その中には、競技場で戦いに使われた獣たちや奴隷、囚人の檻もあったと聞いています。 石で作られた部分や連続した煉瓦のアーチの部分がご覧のように見えています。

その隣にちょこんと建つ小さな建物は、ヴェネツィア人が作った聖マルコ礼拝堂Chiesetta di San Marco。故郷ヴェネツィアへの思いを馳せて作ったものなのでしょうか。

現在は観光案内所として使用されています。

茶色い塔のある建物は、国立保険協会。円形劇場に合わせて、建物が弓なりにカーヴしています。

そして、こちらがレッチェの守護聖人聖オロンツォが見守るローマの円柱です。元々はアッピア街道の終点ブリンディシに建てられた2本の円柱のうちの1本です。 レッチェがブリンディシから奪ったという説と、聖オロンツォがブリンディシで流行したペストを鎮めてくれたので、人々がレッチェに贈ったという説とありますが、ここは性善説をとって、ブリンディシからの贈り物ということにしておきましょう。 ブリンディシを襲ったペストの流行は1656年、円柱が聖オロンツォの像を乗せて現在の広場に建てられたのは1666年のことだそうです。

伝説によれば、聖オロンツォは1世紀の人で、聖ピエトロ本人から直接レッチェの司教に任じられたと言われています。 守護聖人の記念日は8月26日。その日レッチェでは盛大に聖人とその殉教を偲んで祭りが行われます。

聖オロンツォ広場を抜けて、まだ見ていない教会を求めてうろうろします。こちらは、聖オロンツォ広場のすぐ裏のフランチェスコ・ルビキ通りにあったサンタ・キアラ教会です。 創建は1491年ですが、1687年~91年にかけてジュゼッペ・チーノにより全面的に改装されます。ファサードはまたしても一番高い場所のペディメントを欠いた未完成のようですが、不自然さはあまり感じません。

サンタ・キアラ教会前の小さな広場には、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の銅像が立っていました。

ファサード全景です。下層部は中央扉の両側に二本の太いコリント式壁柱が伸び、その両脇には飾りのあるメダリオンのついたニッチェが並んでいます。どのニッチェも彫像はありません。 上層は大きな窓を中心として、やはり彫像を欠いたニッチェが二つ。

今まで見てきた教会とは異なるバロック装飾を見ることが出来ます。中央扉の縁取りの植物の装飾が特に印象に残りました。メダリオンは薄れて、はっきりと確認できませんね。

教会の横には、不思議な物が浮かんでいる建物がありました。その建物の前を通り過ぎ、

扉の上の装飾のアップです。この部分は特に彫刻が素晴らしい状態で残っていることに感激してしまいました。 一番上にある紋章は、アッシジのフランチェスコ会の一派である女子修道会聖キアラ会のものだそうです。 こちらも相変わらず開いていませんね。レッチェで宿泊するならまだしも、バーリからの日帰りとなると、教会内部の見学はあきらめた方が良さそうです。

狭い通りをなおも進んでいくと

いきなりローマのボッロミニを思い起こさせるような、波打つファサードの教会の前に出ました。サン・マッテオ(聖マタイ)教会。建てられたのは1667年から1770年にかけてで、建築家はアキーレ・ラルドゥッチ。 な、なんとこの方、ボッロミニの甥なんですって! 彼はボッロミニの建てたローマの教会サン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネをひどく気にいっていたというのですから、この曲線の交差・連続はまぎれもないボッロミニ様式です。 ボッロミニのサン・カルロ・アッレ・クアトロ・フォンターネについては、こちらをどうぞ! http://4travel.jp/travelogue/11051436

時刻はまだ4時にはなりませんが、ラッキーなことに開いていますよ。というわけで早速中に入ります。 その前に、中央扉の両側の円柱に注目。向かって右側の柱の下部にのみ装飾が施されていますよね。左側は全く手つがず状態。実は、彫刻家が仕事を終える前に嫉妬深い悪魔に食われたのだ というのが地元での噂でしたよ!

ファサードの第一層部分はご覧のような蛇のうろこ模様で全体が覆われています。装飾は奇抜なものはなく、全体におとなし目ですが、調和が保たれています。 こちらにもフランチェスコ会の紋章が高いところに見られました。教会はフランチェスコ会の第三会(在俗会)という修道院を併設しています。

この反対方向に緩やかにカーヴする曲線の連続は、直線のファサードの多いレッチェではひと際新鮮に感じました。 太陽の光を受けて、ピンクっぽく輝くレッチェ石の美しいこと!!!

内部は一廊式。楕円形をしており、白を基調としているたか、とても明るく感じられました。壁に沿って、12使徒たちの石の彫像と礼拝堂が並んでいます。12使徒像はレッチェ近郊アレッサーノ出身の石工プラチド・ブフェッリが1692年に完成させました。

礼拝堂を見て回ります。こちらは聖オロンツォ礼拝堂です。祭壇画は1736年の制作。 十二使徒像は左がマティア、右がフィリポ。

セラフィーノ・エルモによる聖家族と洗礼者ヨハネが描かれた祭壇のある右側二番目は聖誕の礼拝堂。 使徒の左側はタダイ(ヤコブの子ユダ)です。

右側三番目のスペースには寓意像を四体従えた木製の説教壇が置かれていました。 左側の使徒はヤコブ(アルフィの子)。

右四番目はマリアの母聖アンナにささげる礼拝堂でした。こちらの祭壇画もセラフィーノ・エルモの作品です。 左側使徒はヤコブ(ゼベダイの子)。

五番目です。光の聖母の祭壇です。この礼拝堂だけ、レッチェ石の色が途中で変わっているのが気になりました。祭壇画は、古代の教会サンタ・マリア・デッラ・ルチェから移された古いフレスコの一部です。聖母の目つきがちょっと気になりますねえ。

主祭壇、聖マタイにささげられた装飾豊かな祭壇です。中央のマタイ像はナポリ出身のガエターノ・パタラーノによって1691年に作られました。 星型のヴォールトが美しい!

主祭壇の両脇には、左サン・ピエトロ、右サン・パオロ像が立っています。この二人の位置は定位置です。右にピエトロが立っているのを一度も見たことがありません(笑)。

さて左側に移ります。こちらは以前はピエタ像にささげられていた礼拝堂ですが、今はキリストの復活像に変わっていました。生花が祭壇の一部となっていて、ピンクのバラが綺麗でした。 左側の使徒はアンデレ。

左側ニ番目は無原罪の礼拝堂です。祭壇画は聖母被昇天。左側の使徒は福音記者ヨハネです。

下の方に膨らみを持たせた柱の装飾が目に飛び込んできました。まるで植物のつぼみのようですね。スパイラル一辺倒の礼拝堂が続いたので、新鮮に映りました。カスチアの聖リタの礼拝堂です。 使徒はバルトロマイ。

アッシジのフランチェスコの礼拝堂です。祭壇画はフランチェスコが昇天する場面かな?やや暗いなあ・・・ 使徒はトマス。

最後の礼拝堂アガタの殉教の場面が強烈です。 それにしてもこのおじさま、どうして写りたがっているのでしょう???  2枚続けて写っているということは 私と一緒に移動したということですよね!? 最後の使徒は熱心党のシモンでした。

カウンターファサードも1枚。この扉の上の衝立も曲線が良い具合です。

内部も充実していた聖マタイ教会でした。久しぶりにボッロミニやベルニーニと再会した気分です。ルンルン。

教会に合わせたように、周囲の建物も緩い弧を描いていました。少々くたびれているけれど、かつては立派なコーベルだったように思います。

バロックの装飾はまだまだ見つかりそう・・・レッチェも1日では足りなかったなあ・・・

レッチェらしい教会がまた現れましたよ。カルミネ教会。元修道院だった建物との複合施設です。 カルミネ会は1481年にレッチェの町の城壁の外側サン・ビアジョ門近くに最初の教会を作りました。1546年の地震で教会が倒壊したため、この地には1711年に新たな教会と修道院の建設を開始しています。この教会の設計もジュゼッペ・チーノ。彼は1722年に亡くなるまで、この教会の建設に携わりました。仕事を引き継ぎ、1737年に完成させたのはマウロ・マニエーリです。

ファサードは三層に分かれていて、豪華な装飾が目をひきます。サン・マッテオを見た後のせいか、微妙に波打っているにもかかわらず、のっぺりした印象があるのは気のせい? サンタ・キアラ教会との共通点もありますね。 中央扉の上にはカルミネの聖母、左右の4つのニッチェには、カルミネ会の聖人たち エルサレムの聖アンジェロとトラパニの聖アルベルトと、預言者のエリヤとエリシャの彫像が、第二層のニッチェにはアビラの聖テレサとカルミネ会の聖人パッツィのマリア・マッダレーナの彫像がそれぞれ置かれていました。

中央扉上の装飾のアップです。

そして右側です。 全体にまとまりすぎてしまっていて、面白みに欠けるような気がしますが、「教会に面白味なんて不要!」と言われれば、ハイ、その通りでごぜーますです。

そしてファサード第二層の両端に置かれたトロフィーと呼ばれる花鉢にもズーム。こちらは左側

人気のない通りにひっそりと建っていたのは、神の母の教会。正式名はそれに聖ニコラがついています。chiesa della Madre di Dio e di San Nicolò。それより簡単な教会のニックネームは「裸足の教会」。レッチェに着いて最初に見た教会の名前覚えていらっしゃいますか? 靴を履いた聖フランチェスコ教会でした。それに対し、カルミネ会という修道会は「靴を履かない修道会」として有名なのだそうです。創建は1631年。レッチェの貴族ベリサリオ・ペルディーニによって建てられました。ここに来る前に立ち寄った教会もカルミネ会でしたね。

ファサード中央のサン・ミケーレの彫像が見事です。大天使ミケーレ(ミカエル)が堕天使ルシファーをやっつけている最中です。ルシファーはかつて6枚の羽を持つ熾天使よりずっと高位の12枚の羽を持つ最高位の天使だったのですが、神に背き、人間を堕落させ、ミケーレによって地獄に落とされ悪魔となりました。

左のニッチェには、腕が欠けてしまっていますが、守護天使の彫像がありました。人間の一人一人についてその人を守り導く天使です。前にも書きましたね。守護天使の像は必ずそばに子供の姿があります。

右側のニッチェには、アレキサンドリアの聖カタリナ。彼女は信仰を貫き通したため、刃のついた車輪に手足を繋がれて転がされるという刑に処せられましたが、彼女が触れると車輪が壊れてしまい、結局最後は斬首刑となりました。彼女が右手で持っているのはその車輪ですね。

祠発見!

この先のベッケリエ・ヴェッキエ通りが非常に風情がありました。車の通らない細い道の片側に豪勢なパラッツォが建っていました。むむむ、壁にアラベスク模様!

パラッツォはご覧のミナレットのような塔まで伴っていました。他のレッチェの建物とはそぐわない、ここだけが別世界のような一角でしたよ。

コーランの文字が見えます。スペインならムデハル様式と言うけれど、イタリアでは何と呼ぶのでしょう?

レッチェの城門3つ目はサン・ビアジョ門。これも外から見なくっちゃね。

あらあら、またしてもオベリスクらしきものが、門の先にある公園ピアッツァ・イタリアに立っていました。第一次大戦の記念塔だそうです。

振り向いて、こちらがサン・ビアジョ門です。レッチェの南の玄関口で、4世紀のアルメニアの司教サン・ビアジョに捧げられています。現在の門は1774年に再建されたもの。アーチの上の紋章は、ブルボン朝のフェルディナンド4世のものです。 その左右にレッチェのシンボル「メスオオカミにトキワガシ」が見えますね。

サン・ビアジョ門から戻る途中のペッローニ通りで、また豪華なカリアティドのあるパラッツォを見つけましたよ。パラッツォ・グラッシ。17世紀後半の建物で、ジュゼッペ・チーノの設計でした。 本当に玉手箱のような町です!! 何が出てくるかわからないドキドキワクワク感に満ちています。

再びサンタ・キアラ教会。

4時はとっくに過ぎたというのに、サンタ・キアラ教会は開く気配すらありません。ファサード右側にあったこちらの祠はまだ写していなかったな。ジュゼッペ・マンツオ作のサンタ・ルチアでした。

サンタ・キアラ教会の前の道、フランチェスコ・ルビキ通りをそのまま進んでいくと・・・

こちらの立派な建物は、パラッツォ・カラファ。そう、18世紀のレッチェの司教ソジー・カラファが、古い修道院を壊して作り直した建物です。1764年。 18世紀にもなると、バロックは姿を変えてロココ様式が入ってきています。窓枠や扉などにその影響が濃く出ていますね。 扉の上の装飾はレッチェの町の紋章と花綱。優雅な扉にはめ込まれた丸いブロンズが目立っています。

パラッツォ・カラファの前の通りを見ると。ここだけ異なった石が使われていることに気が付きます。 現在のレッチェの町はほぼ古代の町の上に建っていますが、円形競技場とローマ劇場以外は地中深く埋まったままです。この部分は最近地下を掘り返した工事で見つかった、ほぼ完ぺきな姿で残っていたローマ時代の道を再現したものだそうです。4mの幅で、地元の石灰岩で作られた道で、旧市街から海へと向かっている道だと推定されるとのことです。なんともロマンあふれるお話。市役所の粋な計らいにも感謝!

パラッツォ・カラファのお隣にあったのはジェズ教会。おなじみイエスズ会の教会です。ここも工事中でした(泣)! 教会は、のちに列聖されたベルナルディーノ・ダ・カルピについてレッチェにやってきたイエスズ会により、1575年から建設を開始しましたが、完成までにかなりの年月を費やしています。 ファサードはシンプルで直線的。空のニッチェも寂しそう。中央扉の上、二人の天使によって崇められているイエスズ会のエンブレムがで~んと目立っています。

ジェズ教会の前の道を進むと、今度は象に遭遇! なんじゃ こりゃ~!

こちらは、パラッツォ・ペルソーネ。現在はB&Bですが、13世紀にはシナゴグとして使われていました。1495年のユダヤ人排斥運動後には受胎告知のマリア教会に換えられたという歴史があります。 中にはユダヤ人の公共浴場「ミクヴァ」がまだ残っているそうです。

いろいろ寄り道したけれど、やっと帰ってきましたよ。サンタ・クローチェ教会。ここだけは中を見たいと思っていたんです。長くなってしまったけれど、最後まで続けますね。

歩き疲れたのとトイレ休憩のためにマックに入ります。ここで面白い話を一つ。テークアウトして、外でコーヒーを飲んでいると、二人の女性が近づいてきて、「トイレに行きたいから、そのレシートをくれない?」と私のレシートを指さすのです。 「ごめんね。私も行きたいから」と断って、レシートを見ると4ケタの数字が目に入りました。実はここのマック、トイレを使うのにはレシートが必要なのです。

イタリアに来てから一二を争うような、美しいトイレでしたよ。自動洗浄なんてイタリアで初めてかも。エアタオルもダイソン製の強力なマシンでした。レッチェの町と同じくらいマックのトイレの美しさに感激!!  トイレに入る際には、右に見えるテンキーで、数字を入力します。セキュリティ万全でした。レシートをなくさないでね。

象の次はこちらの彫像がお出迎え。神様にリンゴを届けに来たのかしら?

内部は三廊式。デザインはガブリエーレ・リッカルディによるものです。身廊と側廊を隔てるのは素晴らしい柱頭のついた左右8本ずつの列柱です。

ドゥオモの天井と似た印象の木製の天井にはクルミ材が使われています。金メッキされた八角形のパネルが敷き詰められた天井の中央には、美しい金の額に縁取られた「三位一体」の絵がありました。

スフィンクス、ザクロ、アカンサス、渦を巻いているのは植物の発芽? よく見ると柱頭には使徒達の顔も彫られていました。

長い花綱が伸びた側廊の天井は、シンプルなクロスヴォールトでした。

いつもなら、ここで礼拝堂を紹介するのですが、腕の悪いカメラマンが撮ったのはボケた写真ばかり。ここではいくらかましなものだけ紹介します。 入り口に近い最初の礼拝堂は、パドヴァのアントニオの礼拝堂。聖なる子の幻影がアントニオの後ろに見えます。上にある小さな丸い絵は、コンスタンティノポリの聖母と言われる16世紀のフレスコです。

次からずっとNGで、お次は翼廊に飛びます。 右翼廊は三位一体と聖なる十字架(サンタ・クローチェ)の礼拝堂。聖なる十字架の上には、ドゥオモの扉で見たような太陽と月が並んでいます。チェザーレ・ペンナの1637年の作品です。

18世紀に作られた主祭壇は金色の光線に包まれていましたが、後陣のドームの石の装飾がモノトーンに近いため、派手さは全くありません。ドームの第二層にわずかにフレスコが残っているのが見て取れます。聖母の物語から羊飼いの礼拝、受胎告知、訪問、エジプトへの脱出などが描かれていると説明にはあったのですが、確認できませんでした。 左右の壁のパイプオルガンは1961年に導入された最新式でした。

おそらく、この教会で最も有名な礼拝堂が左翼廊にあるパオラの聖フランチェスコ礼拝堂です。設計したのはアントニオ・ツィンバーロ。そう、ジュゼッペのお父さん。1614年~15年の作といわれています。 奥行きを持たせて立体的に演出した祭壇の構成がなんとも素晴らしいですね。6本の円柱とその間の壁に隙間なく施された浅浮彫も大変グレードの高いもの。壁のレリーフはパオラの聖フランチェスコの生涯と奇跡から全部で12の物語が展開されています。

聖顔布を持つヴェロニカ像。

左側廊から身廊を眺めます。そそり立つ円柱は、光の具合で微妙にその色を変えます。

右側廊の礼拝堂は全部で7つ。解説がないので、名前だけ紹介しますね。こちらはピエタの礼拝堂。祭壇は今まで見た中で一番装飾が少なく、すっきりしています。

サンティレーネ テッサロニキの聖イレーネは、レッチェの古い守護聖人で、3世紀の殉教者です。

聖アンドレア・アヴェッリーノ(ナポリ、シチリアの守護聖人)に捧げる礼拝堂。シンプルながら、蔓草のレリーフで覆われたレッチェらしさが現れている祭壇です。エンタブラチュアに彫られた人と植物が組み合わされた装飾も、いかにもレッチェらしいモチーフです。

カルミネの聖母の礼拝堂。カルミネ(カルメル)山は、イスラエルにある美しい山の名前で、聖母が暮らしていた地からも近く、古くから神の祝福の象徴として称えられています。十字軍がエルサレム奪回を目指した頃からいつしか隠遁者がその山中で暮らすようになり、のちにそこから修道会カルミネ会(カルメル会)が発足しています。

受胎告知の礼拝堂。聖母の描写はなかなかですが、大天使ガブリエルに迫力がありません。単なる使い走りの若造のように思えるのですが、私だけかな?

無原罪の御宿りに捧げる礼拝堂。祭壇はさておき、手前の高さの異なる燭台の美しさに目を見張りました。

お終いは、修道院の名前にもなっているサン・チェレスティーノ(日本語ではローマ教皇ケレスティヌス5世)に捧げる礼拝堂です。修道会チェレスティーノ会の創設者で、修道士として有徳の人でした。2年以上ローマ教皇が不在という事態の打開策として、1294年にローマ教皇の座につきましたが、教皇職を嫌い、わずか半年で自ら退位しています。  うう~ん。期待していたほどではありませんでしたねえ。サンタ・クローチェ教会の魅力はやはりファサードに凝縮されていたようです。内部は時間のある人だけでも良いかもしれません。

後刻ようやく開いた教会を急ぎ足で回った時の写真はこちらです。三度目の正直で中に入ることが出来ました。 内部は一廊式で、細長い八角形をしています。ご覧の通り、視界を遮るものがないので、主祭壇とその両脇の礼拝堂が一度に目に飛び込んできます。スパイラル祭壇の三重奏といった感じ。装飾の金色部分は、1950年代にすべて本物の金で装飾し直したそうなので、純金の輝きに満ちた空間です。

天井を見ると、教会内部の形が容易に想像できると思います。この天井は18世紀半ばにマニエーリによって作られたものです。木製に見えますが、実は張り子のトラ ならぬ天井です。つまり、イミテーション。

主祭壇手前の勝利の門(凱旋門)には大天使サン・ミケーレ(ミカエル)と堕天使ルシファーの姿が! この絵個人的には好みです。

礼拝堂の6つの祭壇に置かれた木像は17世紀の終わりから18世紀にかけて、ナポリ出身のニコラ・フーモ、ガエターノ・パタラーノによって作られました。サン・マッテオ教会の主祭壇にあったマタイ像もガエターノの制作でしたね。 サンタ・キアラはアッシジのフランチェスコに最初に帰依した一人。その方に捧げられた教会なので、当然ここはフランチェスコ修道会の教会なのですが、なぜかイエスズ会の方がいらっしゃいましたよ。 日本では最も有名な宣教師フランシスコ・ザビエルです。

こちらはアッシジのフランチェスコ…だと思います。沢山の彫像に囲まれたにぎやかな祭壇です。一体何人いるのでしょう? 腕白プットたちを入れると総勢30人以上!

フランチェスコ会の修道士でスペイン出身のサン・ペドロ・デ・アルカンタラ。

聖キアラに捧げられた主祭壇です。下のニッチェにキアラの木像が置かれています。祭壇後方の半月形の絵の内容が気になるのですが、説明がどこを探しても見つかりません。キアラとフランチェスコ以外の登場人物も残念ながらわからずじまい・・・

主祭壇に向かって左側の礼拝堂。こちらはパドヴァの聖アントニオですね。この方もアッシジのフランチェスコに共感し、フランチェスコ会に入会した修道士です。

先ほど訪れたレッチェの町の南門ビアジョ門にいらした4世紀の司教聖ビアジョの大きな像がありました。日本ではブラシウスと呼ばれているのだそうです。カトリック教会、正教会、アルメニア教会、東方典礼カトリック教会ですべて聖人となっています。

こちらは特に手の込んだ祭壇の一つ、「無原罪」礼拝堂です。あまりにたくさんの顔があって、くらくらしてしまいます。 そうそう、先ほどの主祭壇の両脇にもありましたが、高いところに細かい金属の格子があるのにお気づきでしょうか? この教会に付属していた修道会の修道女たちは、人に見られることなく、この格子越しにミサに参加したのだそうですよ。

最後の礼拝堂は修道会テアティノ会の創始者の一人聖ガエターノです。 これだけのヴォリュームのある教会なのに、内部についての解説がほとんど見当たらず、ほぉ~とか、はぁ~とか言っているだけで終わってしまったのが少し残念でした。

名残惜しいけれど、そろそろ列車の時間も気になってきました。バーリまで2時間近くかかりますからね。 駅に向かう途中にあったこちらの彫像は、14世紀のイタリアのリーダー バルトロメオ・ファンフッラの像です。イタリア人はロダ出身のティトと、親しみを込めて呼んでいます。

ちょっと寄り道をして、ローマ劇場のそばを通って駅に戻りました。住宅街の中にあるので、入り口が分からずうろうろしてしまいましたが、ドゥオモの鐘楼がすぐ近くに見える場所でした。 こちらの劇場は、円形競技場より前のアウグスティヌスの時代 紀元前27年~紀元14年の建造とされています。コンパクトな造りですが、状態が大変良好なのに驚きました。

遺跡は1929年に偶然発見され、1937年から38年にかけて発掘されました。半円形部分の直径が13m。観客席は14列見えていますね。岩盤に直接掘られているそうですよ。 発掘された沢山の大理石の彫刻は修復されてレッチェの州立博物館で展示中とのことです。また、この劇場脇にあった博物館では、ローマン・モザイクや当時の文化、衣装等を見ることが出来るそうです。

それにしても、すごく立派ですね。今でも現役で利用可能な状態のようです。

麗しのレッチェ。たった数時間の滞在でしたが、大満足の1日となりました。こんなにちっぽけな町なのに、つぎから次へと出てくるわ、出てくるわ、びっくり箱、ドラえもんのポケットのように魅力満載の町でした。車窓から青く光るアドリア海を見つめながら、しばらくその余韻に浸っていました。 明日はプーリア州最終日。この続きは「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その50 オストゥーニ」で!

古いフレスコが一部残っていたので、全面改装したわけでもなさそうですが、全体に石が光り輝いています

レッチェまでの途中、列車はアッピア街道の終点のあるブリンディシ・チェントラーレを通りました。街道の終点は海。ブリンディシの港は、地中海の要衝として栄えてきたんだと、ぼんやりとローマ帝国時代に思いをはせている間に、10時33分、列車はレッチェに到着です。 駅前はごくごく普通の町でした。

旧市街までは大した距離がなく、10分ほどで歩いていくことが出来ます。町はほぼこのレッチェ・ストーンと呼ばれる石灰岩からなり立っています。柔らかくて加工しやすいこの石を装飾にふんだんに使った17世紀ころの教会や建物が多いことから、バロックのフィレンツエ、南のフィレンツェなどと呼ばれていますが、個人的にはその名前は気に食わないなあ・・・ なぜって、レッチェのバロックはここだけのもの。バロックといってもと・く・べ・つなんです。

駅から程なく、この黄色い町が始まります。

最初に出会った教会は、サン・フランチェスコ・デッラ・スカルパ。靴を履いた聖フランチェスコ教会という意味です。 変わった名前の由来は、1222年聖地へと旅立った聖フランチェスコが、ここに立ち寄り、彼の履いていたサンダルの一つを残していったという伝説から来ています。他の教会と異なり、「ファサードの無い教会」とあだ名がつけられたほど、外観は質素で、派手な装飾もありません。裸足で過ごした修道僧が多かった中世の時代、ここの修道僧たちは、靴を履いていたのかしら?

カメラをバッグにしまう暇がないほど、手の込んだ装飾があちこちに見られます。町についてまだ15分とたっていませんが、あっという間に、もう気分はすっかりレッチェ・モードです!

三角のペディメントの上の装飾に注目! 中央には羽の生えたライオン、これはヴェネチアのライオンかなあ??? 両端には鳥がいます。 アカンサスの浮彫が見事なパラッツォ・タンボリーノ・チェッツィ。15世紀の建物です。内部は予約の必要なプライベート博物館になっているようです。市内でも最も美しい「秘密の花園」もあるんですって! なんだかわくわく気分になりますね。

黄色い建物は2階建てが殆ど。圧迫感を感じさせない高さです。

やがて、道の向こうにドゥオモの鐘楼が見え始めましたよ。地図なしでも全く問題ないですね。

このままドゥオモまで直行と思いきや、

傍にあった、扉の開いた教会にまたしても吸い込まれます。聖セバスティアーノ教会。1520年のペストの流行で大勢の市民が亡くなった時代に、沢山の義援金と寄付を元に作られたといわれています。セバスティアーノはペストの守護聖人でもありましたね。 燭台のモティーフが随所に見られる正面扉の装飾は、かなり傷んでいますが、見ごたえがあります。

どうやら教会としての機能はすでになくなっているようで、中では地元のアーティストの個展が行われていました。教会時代のフレスコなどはそのまま残っています。多分、16世紀末のものです。

中は一廊式で、大変コンパクトな造り。1967年に大規模な改修が行われたそうです。 サイド・チャペルの祭壇の脇に、申し訳なさそうにアーティストの作品が展示されていました。でも全く目に入りません。ごめんなさいね。

日本語では悲しみのキリスト像と呼ぶのかなあ Imago Pietatis と書かれていたフレスコ画。こちらも16世紀末の作品です。

申し訳ないので、個展を開いていたジョヴァンニ・スクポーラ氏の代表作を1点紹介しますね。 「希望の芽」 germogli di speranza というタイトルの彼の自信作です(多分)。種から新芽が伸びる様子が鮮やかに表現されていますね。

さて、ドゥオモの通用口に到着しましたよ。ぐるっと回っていけば、ドゥオモ広場に出るのですが、一番近くにあった扉に近づいていってしまいました。 サンタ・マリア・アスンタというのがドゥオモの正式な名称です。最初の教会は1144年に作られましたが、1230年にはロマネスク様式で、1659年にはレッチェバロック様式でそれぞれ再建されています。献堂式は1670年、司教パッパコーダにより行われました。

花綱の上には、天使が二人寝そべっています。その下のエンタブラチュア(柱頭の上部へ水平に構築される部分)には、小さな天使たちが花綱を運んだり、乗っかったり、引いたりする場面がユーモラスに表現されています。 3体の彫像は、顔の部分が黒ずんでしまっていて、少々不気味。

中に入って、最初に目についたのは、こちらの扉です。カメラがぼろいために、なんだか分かりにくい写真ですが、外からの写真とを並べてみると、右の赤い方が太陽、左の青い方が月だということがわかります。 扉中段のアルファ(Α)とオメガ(Ω)は、万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエス・キリストを指します。

内部は三廊式で、アーチ状の柱、付け柱が身廊と側廊部分を隔てています。勝利の門(凱旋門)に施された鈍い光を放つ唐草模様が目につきました。

こちらは、主祭壇の奥にあったステンドグラス。大変豪華。

木製の天井がこれまた美しい! 中央に位置する絵画はジュゼッペ・ダ・ブリンディシによるもので、レッチェの町の守護聖人サン・オロンツォの説教、ペストからの保護、聖人の殉教の物語が綴られています。写真には2枚の絵画iしか映っていませんが、全部で3枚ありました。

身廊部分から右側廊方向。側廊部分のヴォールトがこれまた大変綺麗です。 奥に、木製の美しい説教壇が見えます。

レッチェ独特の細かい石の彫刻は、サイド・チャペルの祭壇で思う存分鑑賞することが出来ます。両端に彫像の立つ柱、祭壇画の脇と奥にそれぞれ2本ずつの柱があり、いずれもびっしりと彫刻で覆われています。あまりの緻密さに唖然!! 最初の礼拝堂は、聖アンデレに捧げられています。1700年石工チェザーレ・ペンナによって作られました。両脇の彫像はサン・カルロ(左)、バーリのサン・ニコラ(右)、エンタプラチュアの天使像もペンナによるものと考えられています。すべてレッチェ石製です。 祭壇画は聖アンデレの殉教です。アンデレの職業は漁師でしたが、絵の手前に置かれた魚がそれを暗示しています。

サン・ジュスト礼拝堂は名工としても名高いジュゼッペ・ツィンバーロの1656年の作品です。サン・ジュストも、サン・オロンツォと並んで町の守護聖人となっていることをここで初めて知りました。礼拝堂の建設は、司教パッパコーダが私財を投げ打って作り上げたものだそうですよ。祭壇画は、ガリポリ出身のジョヴァンニ・アンドレア・コッポラの作品。 こちらは柱がスパイラル・タイプで、左右2本ずつという豪華版です。祭壇の両側に向かい合わせに立つ彫像は、左側がナポリの聖人サン・ジェンナーロ、右側がサン・フォルトゥナートです。おお~、この方の顔、杖で隠れてしまいましたねえ。 祭壇画の上には、少々とっぽい顔をした大天使サン・ミケーレが竜を退治する場面の彫像がありました。

1658年にポメオ・パラディーニによって作られた悲しみの聖母の礼拝堂は、スパイラルの柱と柱の間にさらに彫像が置かれているパターンで、見どころ満載です。レッチェ石の彫刻は17世紀半ばのもの。 祭壇画はローマの画家ピエトロ・ガッリャルディの1878年の作品。上方に見える「永遠なる父」の絵もガッリャルディの作品と言われています。

南側翼廊にある多色大理石を用いた豪華版の礼拝堂は町の守護聖人聖オロンツォに捧げられています。象嵌細工のような石の加工技術が巧みで、思わずうなってしまいました。 聖公会のローブを身にまとった聖オロンツォを描いた祭壇画は、この教会で一番有名な作品だそうです。前述のジョヴァンニ・アンドレア・コッポラの作品。 祭壇画脇の彫像は左がサン・ジュスト、右がサン・フォルトゥナート。全体的に少々くどいですかねえ・・・

キリストの磔像のあるこちらの礼拝堂は、司教ソジー・カラファの命により作られた大変豪華な大理石の祭壇です。しかしまあ、このタイプの礼拝堂はローマにもたくさんありましたね。 クーポラのフレスコは思いっきり登場人物が多くて、目まいがしそうですが、今まで見たことのない筆遣いに興味をそそられました。

クーポラのアップです。大勢の天使たちによって、十字架と梯子が運ばれている様子が大変分かりやすく伝わってきます。

翼廊奥にあったステンドグラスです。

主祭壇です。こちらの祭壇は、司教シピオーネ・セルサーレの命を受け、建築当時最高の腕の職人とされたナポリの石工デ・マルティナにより完成しました。祭壇前の豪華なラピスラズリで縁取られているのは、セルサーレ家の紋章です。 後ろの壁にある「聖母被昇天」は、18世紀半ばのティゾ・オロンツォによる作品です。

北側の翼廊にあった無原罪の御宿りの礼拝堂は、1670年、司教パッパコーダの命により建設されましたが、それから何度も「変身」を繰り返しています。1692年には礼拝堂のパトロンとなった家族により金メッキで装飾されました。 ツィンバーロがここでも登場です。彼は聖母の生涯から5つのエピソードを描いた小さな5枚の油絵を祭壇に埋め込みました。聖母像には彩色を施し、エンタプラチュア上にサン・ジュゼッペとサン・ジョアッキーノの像を追加したのです。 1757年には、聖母像の背景部分を除去し、新しくナポリ派のアーチストが作成した聖母像をニッチェの中へと誘いました。その木像は現在州立美術館に収蔵されていて、祭壇には元のジュゼッペ・ツィンバーロ作の聖母像が安置されています。

こちらも、北側の翼廊にあるカトリック司祭で、オラトリオ会の創設者聖フィリッポ・ネリの礼拝堂です。段々とレッチェ様式の礼拝堂にも目が慣れてきましたよ。 祭壇画には、ネリが聖母子からヴィジョンを受けている場面が描かれています。ルカ・アントニオ・パチオッラの1685年の作品。

祭壇付近のアップです。

パドヴァの聖アントニオの礼拝堂。祭壇の設計はツィンバーロ。 よそで見かける聖アントニオは、地味な黒い法服姿が多いのですが、ここでは華麗なる変身を遂げています。説明されるまでアントニオだとわかりませんでしたが、いつも彼と一緒の「キリストの子供」は健在でした。この像は17世紀半ばの木製だそうです。 ちょっとやりすぎ感あり?

階段を下りて、地下のクリプトへと向かいました。12世紀の創建ですが、16世紀にバロック様式が加えられています。 ここでの注目は、何といっても、ずらりと並んだ列柱の柱頭の装飾。様々な人間の顔を見ることが出来ます。

残念ながら、カメラが悪いのか、腕が悪いのか、はたまた両方か・・・で、皆一様に赤い写真になってしまいました。

全部で92本の柱と付け柱があるそうです。

解説がありませんが、町の一般市民という雰囲気ですね。男女二人ずつ彫られています。

人面花といったところかな・・・

何を運んでいるのでしょう? 随分写したのですが、まともに撮れているものが皆無(泣)! この辺でもうやめましょう。

祭壇と思しき場所にあった不思議な絵です。仮面をかぶった人物が二人描かれています。聖母子は宙に浮いているみたいに見えます。 確かマドンナ・デッラ・スカラという礼拝堂だったような記憶。

こちらは、元町の守護聖人、サンティレーネです。

司教サン・フォルトゥナートの礼拝堂。こちらもジュゼッペ・ツィンバーロにより1674年頃作られました。 祭壇画は「殉教に向かうサン・フォルトゥナート」で、こちらは18世紀半ばの作品。向かい合わせに置かれている2体の彫像は、かつてのレッチェの町の守護聖人サンティレーネとサンタ・ヴェネランダ。1656年以降、町の守護聖人は聖オロンツォに「正式変更」されました。守護聖人がころころ変わるのも、イタリアではよくあることです。

受胎告知の礼拝堂です。祭壇キャノピー上には、珍しい「聖誕」の場面の彫像が置かれていました。これ全部石で出来ているのだそうですよ。高いところにありすぎて、全体像が見えないのが残念でした。ガブリエッレ・リッカルディの1545年ころの作品です。古い教会から移されたものの一つだそうです。 祭壇画「受胎告知」は20世紀前半の作品です。作者不詳。絵の手前にも彩色された彫像群が置かれていますが、こちらは17世紀のジュゼッペ・チノによる作品だそうです。こんなに複雑な祭壇は見たことがありません!

こちらは、司教パッパコーダの命を受け、彫刻家ジョヴァンニ・ピントが1760年に制作した石の洗礼堂です。洗礼堂としては変わった形をしていますねえ。 中央に描かれている「キリストの洗礼」は、なんと!高度な張り子の技術を使ったもので、20世紀に入ってからラファエーレ・カレッタが手掛けたものです。 洗礼堂の左右の黒い像は、左が預言者エゼキエル、右がモーゼです。

お終いは洗礼者ヨハネの礼拝堂です。 中央の洗礼者ヨハネ像も、古い教会から写されたものの一つで、この像自体もレッチェ石から作られています。彼の左側にある彫像はサン・クレメンテ、右側はサン・オノフリオという方だそうです。オノフリオさん 足長~い!! 礼拝堂の設計は、この教会ではもうおなじみのツィンバーロです。

初めて見るガラス細工のようなヴォールトにため息です。

こちらはややシンプルだけれど、良い味出していますよね。

先ほど入った横の入り口ではなく、ドゥオモ広場に通じる扉から外に出ました。この美しい5層からなる鐘楼を建てたのも、ジュゼッペ・ツィンバーロです。建造は1661年から1682年。高さが68mあります。

向かって左側のニッチェにはサン・ジュスト。

扉の周りの装飾は、最初に入った扉の花綱とあまり変わらないように思いました。

右側には、サン・フォルトゥナート。内部での配置とほぼ一緒ですね。 気になったのは、隣の柱の中ほどにある装飾。イルカの尾だと思っていましたが、よく見たら、ぷくぷく太ったプットの足ですねえ。

鐘楼の出入り口です。扉の周りの装飾は、人の手が触れる部分が残念ながら殆ど崩落しています。

こちらが、広場に面したドゥオモのファサードです。これが正式な入口だと思っていたら、これは、ドゥオモを訪問する人々を歓迎する意味を込めて、建物の側面に後から追加されたものでした。後刻、正式な「正面」ファサードを発見しました。

広場の奥にある建物は、レッチェの大司教区。中に神学校があります。

便宜上、こちらは「サイド」ファサードと呼ばれているようです。バロック様式による煌びやかなファサードで、2本の柱の脇に、ニッチェがあり、2階部分の中央アーチには、守護聖人サン・オロンツォが祝福のポーズで人々を迎えています。

サイド・ファサード伝いに歩いていくと、

神学校と向かいあっているこちらの建物は司教館です。司教館は1425年にモンシニョール ジローラモ・グイダーノによって建てられ、司教ルイジ・パッパコーダの時代に拡充されました。1725年にはアーチの連続したポーチを追加したことで、調和の取れたシンメトリーな建物となりました。 正面の3層部分にある時計は1761年製だそうですよ。

そして、司教館とは90度の角度で、ドゥオモの「正面」ファサードがありました。広場の一番狭くてだあれもいない方向を向いた可哀想なファサードです。完全に広場の作り方を間違えましたようです。 太陽と月のついた扉は、この正面ファサードのメイン扉でした。

扉の上のペディメントで、王冠をかぶったプットたちが大はしゃぎをしています。とはいうものの、メインというには少々寂しい感のあるファサード。

こちらが後刻写した外側からの1枚。よく見ると、古いブロンズ製の扉の上に、後から細工が施されたように見えます。太陽と月の間にいる「世界の光」キリストの下には大きな浮彫が4つ。それぞれ聖母被昇天、1994年の教皇ヨハネ・パウロ2世のレッチェ訪問、世界的な教会と地元の教会との会合、町の守護聖人たちの殉教を表しているそうです。下の方には広場を埋め尽くす聴衆の姿があります。この浅浮彫は、2000年のジュビリー(聖年)を記念して、彫刻家アルマンド・モッロッコにより作られました。

ニッチェの彫像聖ピエトロと

聖パオロも心なしか寂しそうに見えます。

さて、今度は、ドゥオモのサイド・ファサードの正面にある神学校を見に行くとしましょう。 1694年から1709年にかけて建設されたこの神学校は、現在、教区博物館、図書館、教区公文書館となっています。建築家ジュゼッペ・チーノはこちらの建物のファサードについても、ツィンバーロを採用しました。バロック様式をふんだんに取り入れたアーチのあるバルコニーがとても優雅な佇まいを見せています。

微笑むプットがデザインされた柱頭もご覧の通り!

バルコニーを支えるコーベルの一つ一つに、細かい装飾が施されています。ここで見られるのも、人間の顔を用いているのが特徴ですね。こちらは建物の中央扉の上のバルコニーです。真ん中にあるのは、神学校建設を命じた司教ピニャテッリ家の紋章です。

せっかくなので、入場料を払って教区博物館Museo Diocesanoを見学させてもらいました。

入り口を入ると、石の花綱で装飾された大きな部屋があります。ずらりと並んでいるのは教会博士といわれる方々の胸像。いずれの像も頭をぶつけそうだと、少々斜めに構えたポーズをしているように見えたのですが、目の錯覚かしら? 左から、ヨハネス・クリュソストモス(4世紀の神学者、説教者、コンスタンティノープル大主教)、聖ボナヴェントゥラ(13世紀イタリアの神学者、枢機卿、フランシスコ会総長)、アウグスティヌス(5世紀の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父)、そしてグレゴリウス1世(ローマ教皇)というそうそうたる顔ぶれ!

こちらは左から、アンブロジウス(4世紀のミラノの司教)、ヒエロニムス(聖職者・神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者)、トマス・アクィナス(中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者)、アレクサンドリアのアタナシオス(4世紀の神学者・ギリシア教父・聖職者)です。

部屋を出ると、その先にある美しいキオストロへと導かれます。中庭の中心に立つのが、17世紀制作の「真のオーヴァル」と呼ばれる井戸です。

同心円を描いた3段のステップの上に、その見事な井戸は昔と変わらない形で立っていました。あふれんばかりの花や果物の房、花綱、唐草等で飾られています。プットたちに支えられてその頂きに立つのは、町の元守護聖人サンティレーネです。

反対側からも1枚!

中庭を囲む建物の四隅には地味ながら彫刻が施されていました。

中庭を突っ切って、左に折れると、1696年に建てられた神学校付属の小さな礼拝堂に突き当たります。 小さく、「サン・グレゴリオ・タウマトゥルゴの礼拝堂」と書かれていました。この方は3世紀の司教、説教者で、奇跡を行うグレゴリオとして知られています。

英語で言うワンダーメーカー、聖グレゴリーの祭壇です。ナポリ派の画家 パオロ・デ・マッテイスの1696年の作品です。 レッチェ石を用いた祭壇両側の彫刻も素晴らしいですね。

神学校らしく、館内は静寂そのもの。ごみ一つチリ一つ落ちていない、歩いているだけで、背中がピーンと伸びる思いでした。

こちらの扉でも目立つのは、司教を何人も輩出したピニャテッリ家の紋章です。 一般人が入れるのはここまでのようですから、そろそろお暇しましょう。

ドゥオモ広場に戻ってまいりました。この広場、最初に作られたのは1420年代。それから何度もモデルチェンジしています。 写真は、司教ソジー・カラファテの時代に作られた、広場の入り口を飾るProspetto dei Propileiと呼ばれる三人の聖人が出迎える舞台です。そこにはラテン語で次のように書かれているそうです。 「広場にもっと簡単に入れるよう、より自由でよりエレガントな入口をオープンさせました。」 なんともニクイお言葉ですねえ・・・

広場を出て、街歩きに戻ります。今日は良い天気でほっつき歩くには最高。ローマのような蒸し暑さはなくて、からっとしています。

ほーら!ここにもありましたよ。束石にお金をかけるレッチェ人の心意気が示されています。

続いてやってきたのは、サンティレーネ教会。テッサロニキの聖イレーネ。1656年までレッチェの町の守護聖人だった方でしたね。 教会は1591年から、修道会テアティン会のフランチェスコ・グリマルディが作り始め、1639年にブリンディシの司教により献堂されました。 教会は、1797年のブルボン朝のフェルディナンド4世の訪問を経験し、1860年にはイタリア王国への参入の是非を問う投票所として使用される等、重要な歴史の舞台にもなっています。

教会はグリマルディがかつて所属していたローマのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレに雰囲気が似ているそうです。といわれてもすぐには思い出せないなあ・・・ サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会についてはこちらをどうぞ! http://4travel.jp/travelogue/11067871

中央扉上のニッチェには、マニエーリが1717年に制作した聖イレーネ像が立っています。この像、元はブロンズでメッキされていたようです。 6つあるニッチェはどれも空っぽでした。イタリア南部の教会は、この時間すでに長い昼休みに入っているので、中を見るのはあきらめて次に向かいます。

コーベルシリーズ第3弾。こちらは、動物の頭と前足が並んでいました。面白い!

コーベル第4弾は、アルテミスでしょうか? おっぱいの下には、たわわに実った沢山の果実が見えますね。

中央に見える、王冠のついたトキワガシの花輪を乗せた白いメス狼は、レッチェの町の紋章です。面白いデザインですね。

ドゥオモ近くのキオストロで開かれていた蚤の市を冷やかして・・・

今度はドゥオモの北側のジュゼッペ・リベルティ-ニ通りを進みます。狭いけれど、活気のある通りです。車も殆ど入ってきません。

レッチェ石のお土産物屋さん。昨日のマテーラとあまり変わり映えしないような気もしますけど・・・

こちらは、レッチェ石の手作りランプです。重くなけりゃ一つ欲しいところです。

またも、面白いファサードに出会いましたよ。聖テレサ教会。こちらは隣接する修道会跣足カルメル会の修道院付設の教会で、1620年の創建です。 設計と建設にはまたしてもはジュゼッペ・ツィンバーロとチェザーレ・ペンナが関わっています。この人達なしにレッチェのバロックは語れません。 しかしながらおかしい点が1つ。ツィンバーロは1620年生まれ。生まれた時から教会建設していたわけではないでしょう。でもどの資料を読んでもツィンバーロの名が出てくるので、建設に参加したことは間違いなさそうです。 修道会に対する抑圧が行われた1807年以降は、修道院はカラビニエリの兵舎、学校、タバコ倉庫等に使われてきたという歴史を持っています。

なんとなく違和感を持つこのファサード。そう、創建から400年たってもまだ未完成なんです。この上に三角形のトップ・ペディメントを乗せると教会らしなりますよね。 ファサードで目立つのは左右3本ずつのコリント式柱。柱頭は割と一般的なデザインですが、花綱との連続模様になっていて、力強い印象です。 左右のニッチェには、洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネの石像が置かれていました。

中央の扉上の装飾はこじんまりとしていますが、綺麗に残っています。掲げられた紋章は十字架奉仕団体のものだそう。 上層部分にも創造物がたくさん置かれていて、中央の可愛い窓の周りの装飾にいたるまで、完璧で手が込んでいます。装飾そのものはほぼ完成しているといっていいのに、なぜ最後のペディメントが付かなかったのでしょうかねえ・・・

聖テレサ教会前の街並みです。

レッチェの町の雰囲気にぴったりのトラットリア サン・カルリーノ。お値段も手ごろです。

小さな可愛い教会が見えてきました。サンタ・アナ教会。レッチェの町には女性聖人に捧げる教会が多いですね。 ファサードは、ドゥオモの正面ファサードをミニサイズにしたような印象。1680年の創建です。ここもツィンバーロが設計したという説が有力です。町中ツィンバーロで埋め尽くされています。

教会脇の階上へと続く階段がまた良い雰囲気を醸し出しています。 思わず上って行きたくなるような階段だと思いませんか?

4本の柱の柱頭デザインがインパクトありです。女性の顔に羽が渦を巻いたような模様が良いアクセントになっています。

この旧市街には一体いくつの教会があるのでしょうか? 何分も歩かないうちに、また次の豪華な教会が現れましたよ。ロザリオの洗礼者ヨハネ教会、通称バシリカ・デ・ロザリオです。創建は1388年ですが、現在のファサードを建て始めたのは17世紀末の1691年。今まで歩いてみてきた教会同様、こちらもツィンバーロが建設に加わっています。 もともと14世紀にドメニコ会の神父がレッチェにやってきて建てた教会なので、熱心なドメニコ会の信者であったツインバーロはこの教会への財政的な援助も惜しまなかったそうです。ツィンバーロが1710年に亡くなった後工事は他の建築家に引き継がれ、1728年にようやく完成をみています。つまりこの教会がツィンバーロの最後の作品ということになりますね。

残念ながら工事中のようで、紅白の網が外観を著しく損ねていますが、ここはじっと我慢して見ないように努めます。 2本の柱の柱頭部分から左右に波立って拡がっていく装飾の列にも、ただただ口を開けてはため息の繰り返し。特に繰り返し使われている、躍動的な羽の生えた馬の装飾は見事ととか言いようがありません。 ファサード上層部の中央には聖母の姿、巨大な松ぼっくりのような花トロフィーの上には鳥が乗っかっているようだけれど、はっきりとは見えません。

まず目に飛び込んでくるのは、スパイラルの溝付きの2本の巨大な柱と中央の豪華な装飾のある部分です。彫像はサン・ドメニコ、そしてその下にあるのはドメニコ会の紋章です。彫像の背景となっている花の浅浮彫が言葉にならないほど美しい!!

左側のニッチェには洗礼者聖ヨハネ

そしてこちらはどなたでしょう? 預言者エゼキエルかな?

バシリカ・デ・ロザリオのある場所はレッチェの町の北西部の入り口となるルディアエ門のすぐ近くでした。ルディアエ門はレッチェで最も古く魅力的な城門と言われており、今はない古代都市ルディアエがその名前の由来となっています。 こちらは城門の内側なので、外側を覗きに参りましょう。

思った通り、派手なのはやはり外側でした。右手にかつての城門の名残が残っていますね。現在みられる城門は、古い城門の上に17世紀末に作られました。力強い4本の柱の柱頭の上には、神話に基づく町の創設者4人の胸像( Malennio 、 Dauno、 Euippa 、Idomeneo )が置かれています。 門はまたの名をオロンツォ門と呼ばれていますが、それが示す通り、門の一番高いところには聖オロンツォの彫像、脇を聖イレーネ、聖ドメニコが固めていました。中央のエピタフには、門が再建された経緯がラテン語で書かれているそうです。

ルディアエ門の内側に隣接してあったのは、レッチェ美術アカデミー。町中が芸術作品のようなレッチェの町の保存・修復に卒業生が貢献しています。

バシリカ・デ・ロザリオの前には、元スピリト・サント病院だった建物が残っていました。アシュラー式と呼ばれる独特の石の積み方が目につきます。

これは再びバシリカ・デ・ロザリオで、聖堂の両端に置かれていた石の彫刻にズームしました。太陽と月と星のデザインですね。

お土産物屋さんの前に置かれたヴァイオレットの自転車。乗るには勇気がいりそう・・・

来た道を戻って、先ほども目についた建物を調べてみると、こちらも教会だということが判明しました。サンタ・エリザベッタ教会。再び女性聖人に捧げる教会です。 この位置からだとわかりませんが、奥に丸いクーポラが乗っかっていて、遠くから見れば教会に見えそうです。1519年の創建。大変シンプルなファサードで、教会らしさはバラ窓だけですが、こちらは19世紀の作だそう。

ジュゼッペ・リベルティーニ通りから今度は北に進路を取ります。

蛇のうろこのような柱発見!

美味しそうなザクロ、スイカの描かれた絵皿、そして松ぼっくり(ピーニャ)の置物が沢山!

美しいバルコニーの手すりを見ると、つい撮りたくなってしまいます。フランスと比べると、イタリアではあまり見かけなかったのだけれど・・・

昼下がり。店を開けているのはお土産物屋さんだけのようです。

またありましたよ。ユニークなコーベル。左側の建物の壁の装飾も凝っています。

小さなイグナツィオ・ファルコネリ広場では、こんな建物を発見! 現在カルチャーセンターとして利用されている建物で、パラッツォ・マッレーゼPalazzo Marreseと書かれていました。18世紀の建物ですが、市内で一番美しいと評判です。

四人のカリアティードが柱の上でエンタブラチュアを支えています。両端の二人は頑張って両手を使っているけれど、内側の二人は片手のみ。完全にやる気なしとみました。四人の衣服のひだが、風化が進んでレース編みのような風合いを醸し出しています。 そして、素晴らしいプットたちによるコーベルのオンパレード!一体一体皆異なった表情を見せていて、その細かい表現に驚かされます。

なおも道を北に進みます。屋根が微妙に曲がった建物も風情がありますね。

ほらね!

こちらは1738年から1742年の間にマウロ・マニエーリによって建てられた平和のマリア教会maria della paceです。 ファサード上層部のシンプルな蔓草模様が良いアクセントになっています。今は教会としては機能していないようですね。

古くなって重厚さが増した? と言えなくはないこの建物はナポリ門の近くにありました。よく見ると、壁面にさりげなく装飾が施されているのがわかります。

道の向こうに、大きな丸屋根のサンタ・マリア・デッラ・ポルタ教会が見えてきました。教会の先には、レッチェの町の北の門ナポリ門があります。

サンタ・マリア・デッラ・ポルタ教会の手前にあったのが、こちらのテアトロ・パイジエッロ。ターラント出身の音楽家ジョヴァンニ・パイジエッロ縁の劇場です。オロンツォ・ベルナルディーニが建てた木造の建物を1872年に石造りで再建しました。デリケートな細部の建築にはナポリの職人が多く関わったとのことです。席数は320。 アーチ部分に楽器やギリシャ悲劇のお面などの装飾を見ることが出来ます。

教会の壁にあった浅浮彫のスラブです。これも奇跡の場面でしょうか? 歩き始めて3時間、さすがに疲れたのでこの辺で休憩を取ります。この続きレッチェ後半は、「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その49 レッチェ(2)」で!

ナポリ門に到着です。 この門は1548年、神聖ローマ皇帝カルロ5世(ハプスブルグ家)が、町の要塞化を実施したことに敬意を表し、凱旋門として作られた門です。のちにナポリ門と呼ばれるようになりました。

ナポリ門の下に立って、町の外、広い歩道のある道ヴィアレ・ターラント方面を見ると、なんとオベリスク発見!

こちらは、1822年から26年にかけて、両シチリア王国のフェルディナンド1世(ブルボン朝)に敬意を表して建てられたものなのだそうです。オベリスクの4つの面には、当時”Terra d'Otranto"と呼ばれていた4つの町レッチェ、ターラント、ブリンディシ、ガリポリそれぞれのシンボルマークが刻まれています。地元の石を用いたもので、高さはおよそ10m。 ちょっと疲れてきたので、そばまで行かなかったのを後悔しています。

表側はこちら。高~い! 20m近くありそうです。左右2本ずつのコリント式柱で支えられた三角形のペディメントには、カルロ5世の紋章、ローマの凱旋門を連想させる銃や鎧等が浅浮彫で彫られています。 ペディメントの下には、カルロ5世を称える碑文が書かれているそうです。

パンテオンのような形をしたサンタ・マリア・デッラ・ポルタ教会は、もともとは聖母マリア像を持つ城壁の外の小さな教会だったそうですが、1548年のナポリ門建設と城壁工事に伴い、城壁の内側に移設されました。1567年には、そのマリア像が奇跡をもたらしました。祈りを捧げていたラウラ・マッキアという女性の、50年以上麻痺した体が一瞬で治癒したというのです。このことがあって、にわかに教会は有名になりました。久しぶりに奇跡の御話聞けましたよ~! 現在の建物は1852年から58年にかけて、ネオクラシック様式で再建されたものです。

聖カルロ・ボッロメオの礼拝堂。最初の礼拝堂と雰囲気が似ていますね。それもそのはず、こちらも最初の礼拝堂と同じカエサル・ペンナの作品です。なんとまあ! 祭壇画の枠は金箔で覆われていますよ! 両脇の彫像は、左側がサンティレーネ、右側がサンタ・ルチアです。

イタリアの文化・風俗・注意点

 教会に入る時には、半ズボン、肩の出る服装では入場を拒否されることが多くあります。
 商店の昼休みが長く、銀行も午前中および午後の一部しか営業しません。また官公庁の窓口は大部分は午前中のみの受付で、郵便局も午後の早い時間帯に終業するので留意が必要です。
 夏期の8月は、イタリア人の多くが長期休暇を取り、都市からいなくなるため、観光客が集中する場所のファーストフード店以外のレストラン、商店等の大部分が1か月近く閉店します。
 商店等での支払の際には、習慣として、小銭を先に出し、その後お札を出します。お釣りをもらう場合も同様の順番になりますが、必ず、全額を受け取って、額を確認してから財布等にしまいます。先にもらった小銭だけしまってしまうとお札がもらえないことがあるようです。また、銀行での両替の際には、換金証明書が最後に渡されますが、先に渡された現金を財布にしまってしまうと、証明書の額と受け取った額が違っていても差額の請求ができないので注意が必要です。

 気候は南北に細長い地形のためかなり地域差がありますが、一般に夏は高温乾燥、冬は低温多湿の地中海性気候で、10〜12月は雨の日が多くあります。
 年平均気温で見ると、東京と比べて、フィレンツェは0.5℃低く、ローマは1.1℃高く、また、ミラノやベネチアは、1.5〜2.0℃低い都市です。また、夏の日中には、気温が相当上昇することが多いので、炎天下の行動は日射病や脱水症に十分気をつける必要があります。

 街中にある湧き水は飲用可能で、慣れれば問題ないようですが、水質は石灰分の含有量が多く(炭酸カルシウム換算で日本の4〜5倍)、短期滞在の場合は1回沸騰させた水かミネラルウォーターを飲用する方が無難です。
 一部の魚介類については、遠方から運ばれてくるものがあり、保存状態が良くないものもあるので、レストラン等での外食時には、特に鮮度、加熱の状態をよく観察し、不確かなものは避けた方が良いでしょう。

 医薬品は、一般大衆薬であっても、いくつかは医師の処方箋がないと購入できないので、風邪薬、胃腸薬等の常備薬の類や外傷時の応急外用薬は、日本から持参するのが賢明です。

 医療水準には問題ありませんが、公立病院は私立病院に比べて、機能性や清潔感に欠ける傾向が見られ、また英語を解さない医師が多いです。一般に救急車で搬送される公立病院(救急病棟)では、無料で治療が受けられますが、常に混雑しており、患者搬送後、何時間も待たされる場合が少なくありません。このような事態をできるだけ避けるには、私立病院での治療を選択する方がよいでしょう。