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カブールってどんなところ?

カブールの地図

カブールのブログ旅行記

アントニオの世界旅行記 > 海外旅行レポート一覧

2006年6月3日 ... すべて表示, アトランタ, アンタナナリボ, イースター島, ウランバートル, カブール, グァテマラ シティ, サンクトペテルブルグ, シアトル, シラーズ, ソウル, ダッカ, トロント, ドバイ, ナイロビ, バリ島, バルセロナ, ブリュッセル ...

2007年5月 - 地球浪漫紀行世界紀行スタッフの旅のお話し

写真上:アフガニスタン・カブールの女子中学校写真下:アフガニスタン・ ジャララバードの小学校で、 日本から預かってきたノートなど文房具を配る川崎大地 ( パキスタン航空さん、荷物の超過重量無償提供ありがとうございました) ...

アフガニスタン、トラベログ、トラベローグ、TRAVELOGはみんなの旅行 ...

アフガニスタン・カブール ⁄ 旅行記. アフガニスタン、ドバイとバハレーンの旅. reported by アントニオ ( 2006/08/02 10:31 ) ... 首都: カブール Kabul. 言語: 主 にダリー語、パシュトゥー語. 宗教: 主にイスラム教. 時差: 日本標準時 -4.5時間 ...

アントニオの世界旅行記 > 海外旅行レポート一覧 > レポート

2006年8月2日 ... カブール行きが日本で購入できる航空券はパキスタン航空のみですが、成田発が週2便 なのであきらめて、そのかわりガイドブック ... そのためドバイまでエミレーツ航空で 飛び、ドバイ空港でカブール往復の航空券を購入することにしました。 ...

カブールの写真・旅行記

1974年2月。 約3年間住み慣れた、パリでの生活に飽き足らずに飛び出した。 オランダ、ベルギー、ドイツ、イタリア、ギリシャ、トルコ、イランを横断して、マシャッドからバスでアフガニスタンのヘラートに入った。 パリを出てからもう1ヶ月は経っていた。 当時のアフガニスタンはまだ王制で、最近のような騒ぎのない平和な国だった。 ヘラートにバスから降り立った時、一瞬、「江戸時代の宿場町に来たのか?」っと錯覚するほどであった。 辺りは夕方で薄暗く完全に静かであった。 降り立った道は土の道で、通りを見渡せば両側には松の木並木が、そこを馬車が「シャン・シャン・シャン」と鈴を鳴らしながら通る。 自動車なんぞは、乗ってきたバスが去ってしまえば、どこにも無い世界なのだ。 もちろん街灯などは無い。 本当に夜は静かに更けていくのだ。 旅籠に寝ていても聞こえるのは、馬車の音色のみ。 また古代シルクロードの香りが強いところだった。 村はずれにあった崩れたお寺の青いタイルを見たときは、これは1000年くらい前のものがそのまま放置されているのではないか?とさえ思ったものだ。 それからバスでタリバーンで有名な、カンダハルを経由してカブールに入り、1ヶ月近く住み着いた。 当時のカブールはバック・パッカー天国だった。 1ドルだせば馬を1日借りられ、カブールの丘を馬で1日中駆け巡った。 1ドルだせば、当時の1流ホテルのレストランで、ビフテキをおなか一杯食べられた。 安い宿に泊まっていれば、1日1ドルで生活が楽しめたので、多くの欧米人と日本人の若者が一杯、カブールに沈没していた。 ヒッピー華やかりし時代で、どのバックパッカー宿もサイケデリックな模様を書きなぐった食堂で、ロックとドラッグと酒に浸って騒いでいた。 特にアメリカの若者が多かった。 マリワナ、グラース、ダイナマイトなどの言葉が日常的に飛び交っていた。 大抵の日本人の若者は、ここらでドラッグとはお別れになるか、逆に中毒になるかのどちらかだが、特にアメリカ人は飽き足らないのか?しつこくパキスタンやインドでも煙に浸っていた。 アフガニスタンのように、自由に手に入るところでは、日本人はどうしても体力的に小さいので、身体が受け付けなくなる。 それでもやるヒトはやるので、日本まで持ち込んだりするバカが時々出てくるのだ。 (当時からヨーロッパの一部の国では大麻は合法となっていた) 1974年のアフガンは全くの観光地であった。 古き良き時代だ。 このときにバーミヤンのあの大きな磨崖仏を見ておかなかったのは一生の不覚でした。 (なお、この時代のアリヤンは写真嫌いな時代で写真が殆ど残っておらず最近たった1枚だけでてきたので掲載します。メガネの人は日本の僧侶で旅行中の人だった。)

パリを出てからアフガニスタンにやってくるまで、明日の心配は全く無かった。 イタリアのブランディジからインドのデリーまで、世界中の若者であふれていた、と言っても過言ではなかった。 つまりパック旅行?みたいなもので、何らの前知識も無くても、デリーまでは行き着いてしまうのです。 若者同志気の合う連中さえ見つければ、しかもその連中がこのヒッピーロードのリピーターであれば、なおさら便利なのだ。 リピーターでなくとも、ロンリープラネット片手のパッカーと仲良くなれば良いのだ。 連中は安い交通機関、安い旅館、安い食べ物屋、訪問地の見所、若者の集まるところなど、、、良く知っており、そうした連中の後についていけば、衣食住ともに安くユーラシア大陸横断旅行ができる、っという具合なのだ。 勿論、心の良いヤツか否かは、当方の心眼力によりますが。

当時のユーラシア大陸横断ルート。 別名、ヒッピー・ロード。 このルートで出会った旅行人種で多い順。 1.アメリカ人 2.日本人 3.西欧人(イギリス人が多い)