スポンサードリンク

カメルーンってどんな国?

カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、アフリカ中部の国。首都はヤウンデ。西から時計回りにナイジェリア、チャド、中央アフリカ、コンゴ共和国、ガボン、赤道ギニアに隣接し、南西部が大西洋ギニア湾に面する。
旧ドイツ植民地からイギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。非同盟路線を歩むが、経済、文化、軍事面でフランスとの関係が深い。1995年にイギリス連邦に加盟した。

カメルーンの地図

カメルーンのブログ旅行記

旅行会社ガイド - トラベログ

ガーナ. カーボベルデ. ガボン. カメルーン. ガンビア. ギニア. ギニアビサウ. ケニヤ(2). コートジボアール. コモロ. コンゴ共和国. コンゴ民主共和国. サントメ・プリンシペ. ザンビア. シエラレオネ. ジブチ. ジンバブエ. スーダン. スワジーランド. セイシェル(1). 赤道ギニア.

カメルーン - トラベログ

旅行情報の発信サイトのトラベログ、トラベローグ、TRAVELOG 。国内、海外の旅行記 、旅行日記、旅行体験記、トラベル日記、旅行写真集、旅行フォトアルバムを、無料で 作れる旅行専門のブログ、サイト.

コショラー土産| 世界一周御披露目帳 - Ameba

2011年1月11日 ... 世界一周御披露目帳 ☆-カメルーン産. カメルーン産のコショウなんですって。 カメルーンってどこだっけ??と思いつつも、容器の缶もいい感じだし、 他にコレといった コショウも見つからなかったんですよね。 黒こしょうと、三色入りの二つを買っ ...

旅のリンク集 - トラベローグ、トラベログ、TRAVELOGはみんなの旅行 ...

アルジェリア. アンゴラ. ウガンダ. エチオピア(1). エリトリア. ガーナ(1). カーボベルデ. ガボン. カメルーン. ガンビア. ギニア. ギニアビサウ. ケニヤ(5). コートジボアール. コモロ. コンゴ共和国. コンゴ民主共和国. サントメ・プリンシペ. ザンビア(1). シエラレオネ. ジブチ .

カメルーン人は陽射しに弱い? 北米滞在67日目|世界一周ブログ(略し ...

2006年2月1日 ... adventure2006の□世界一周ブログ(略してセカブロ)が帰国後、社会復帰がんばる ブログの記事、カメルーン人は陽射しに弱い? 北米滞在67日目です。

ブログテーマ[フランス土産]| 世界一周御披露目帳 - Ameba

2011年1月11日 ... 世界一周御披露目帳 ☆-カメルーン産. カメルーン産のコショウなんですって。 カメルーンってどこだっけ??と思いつつも、容器の缶もいい感じだし、 他にコレといった コショウも見つからなかったんですよね。 黒こしょうと、三色入りの二つを買っ ...

ここどこにゃう!?|諸岡なほ子の『旅の途中のスウィートホーム』 - Ameba

2010年6月14日 ... カメルーンならば、日本戦が見れるでしょう、必ず! コロンビアといえば、エメラルド マウンテン。 カメルーンもたしかコーヒーで商いしてたかと。 というわけで、日本 .... カメルーン戦が視聴可能な時間帯(昼間は撮影でしょう)であること。 雨が降り ...

《16》 成田 → ベルゲン - - 旅行記・いつもこころにヨーロッパ

2002年7月16日 ... 上の画像は、 フロイエン山の展望台から眺めたノルウェーの港町・ベルゲンです。 2002 年6月。日本で初めてのワールドカップが開催されました。サッカー大好きな□□と○○ の2人は、 6月1日(土)、アイルランド 1-1 カメルーン(新潟) 6月2日( ...

旅は青空 - 誰が微笑む旅 カメルーン - 旅行記ブログ トラベーる

天使が微笑み 悪魔が囁く ―― 「先生、一応血液測ってみましょうか?」 間髪いれず、 背後から聞きなれた、とても聞き飽きた(笑)声がする。 ほらきた!だから、はやくこの女 追い出せというのに!そして、ほぼ同時に医師の背後の女がたまりかねたように噴出し  ...

コショラー土産の画像 | 世界一周御披露目帳 - Ameba

2011年1月11日 ... 世界一周御披露目帳 ☆に投稿された画像です。

お気に入りCD:アフリカ: shukran@world

2008年6月4日 ... Awa Awa (Wes) カメルーン 4. Yeke Yeke (Mory Kante) ギニア 5. Agolo (Angelique Kidjo) ベニン 6. Without a ... Soul Makossa (Manu Dibango) カメルーン 10. DJembe (Salif Keita) マリ 11. Matswale (Caiphus Semenya) 南ア 12.

前へ - トラベログ

スーダン. ソマリア. ジブチ. ケニア. カメルーン. ガボン. 赤道ギニア. コンゴ共和国. コンゴ 民主共和国. ウガンダ. コモロ. サントメ. プリシンベ. マラウイ. タンザニア. ルワンダ. ブルンジ. セイシェル. アンゴラ. ナミビア. モザンビーク. ザンビア. マダガスカル. ジンバブエ.

2011年01月11日のブログ| 世界一周御披露目帳 - Ameba

2011年1月11日 ... 世界一周御披露目帳 ☆-カメルーン産. カメルーン産のコショウなんですって。 カメルーンってどこだっけ??と思いつつも、容器の缶もいい感じだし、 他にコレといった コショウも見つからなかったんですよね。 黒こしょうと、三色入りの二つを買っ ...

カメルーンの写真・旅行記

―― 天使が微笑み 悪魔が囁く ――  それはそれは、大変木枯らしの吹く日でした―――。 「せ、先生・・・・・これって・・・もしかして、もしかして・・・整形外科じゃなくって、あっちのほうでしょうかぁ~(泣き顔)?」 アタシは仲間に抱えられて、ほうほうの体で診察室にたどりついていた。 来たくなかった病院・・・・・。 ここだけはカンベンして欲しかった病院・・・・・。 「だって、安くなるんだろ?」 おめ~~らそういう問題じゃねぇ~~~。 若い医師の背後に立つ同級生の看護婦が笑いをかみ殺している。 アタシはこいつを殺してやりたい気分だ。 なんでって・・?このオナゴは、アタシの診察券を見るや否や地下にいる妻をいち早く呼びに行ったのである・・・・・。 そういうわけで、瀕死のアタシの背後で鬼の首をとったかのような顔で魔女は仁王ダチだ。 二日間アタシが立つこともできなかった左足のふくらはぎを押さえながら医師の沈黙。 ――も、もったいぶらんと、はやく言うてくれぃ~~。覚悟はもうできております(泣)。せ、せめて、アタシの後の鬼を追い出してくれんかなぁ~~・・・・・(泣)あんた勤務時間中じゃなくって・?・・減給よ!(泣)・・・・・。 「・・・・ああ、痛風ねぇ・・・・・・なにか心当たりあるんですか?」 「でも先生・・・・・ここ最近は地元のほら、焼き鳥と言って足の腿揚げがあるじゃないですか?これが最高のご馳走にとって替わったのです。塩のみまぶした素揚げ、熱々、骨付きジューシーな肉汁(肉質)、皮のとこ与えておけばご機嫌さん♪です。ウルサイですか? ザンギもいいですよね(※ 鶏の唐揚ですが、パン粉をまぶして揚げるご当地名物です)。ただしパサツイタ白身だと暴れるので注意。あるお持ち帰りの懇意な店では「持ち帰り注文?まるくん?またテバサキだけ?」などと辟易されております。これで、高級ワインからテーブルワインまで、泡盛の古酒から安焼酎。ベルギーのテンプルビールから発泡酒まで。 高級アイリッシュから和イスキー(笑)まで。なんでも、ドンドンいけちゃいます♪あ、脱線しそうでした・・・・・・。足の腿揚げの説明でしたよね?先生っ♪」 「・・・・・・・・・・・い、いや、いやもういいですよ(苦笑)。これはただの靭帯損傷でしょ?どうしてなったか記憶にないですか?」 「さぁ~~・・・・・?あっ、サッカーをやっておりまして、久方ぶりにしたので、痛めたのかな?」 「ああ、サッカーを・・・?」 「先生、一応血液測ってみましょうか?」 間髪いれず、背後から聞きなれた、とても聞き飽きた(笑)声がする。 ほらきた!だから、はやくこの女追い出せというのに!そして、ほぼ同時に医師の背後の女がたまりかねたように噴出し笑いころげた。 う、動けるものならけり散らしてやるところだわ・・お、おまえらなぁ~~(大泣)・・・。  まさか、まさかではあったが一応安堵した。 しかし、この痛さはハンパじゃない。 結局、杖を借りて地下の検査室へ降りた。 妻に血を抜きとられた人、この世で何人いるのかしら・・・・・? アタマはまっ白だった。 で・・・・・医師曰く、「判定は、限りなく黒に近い灰色ということですね」 アタシは犯罪者か??? 石膏で足を固められながら、アタシは気がかりでしょうがないことがあった。 「・・・で、先生・・・再来週から、ちょこっと、旅行の予定なんですが・・」 「え?スキー旅行とか言うんじゃぁないでしょうね・・・?」 「先生冗談きついわ(泣笑)。たんなる旅行ですよぉ~~」検査終えて、またまた付き添ってきた鬼妻を横目で見つつ、祈る気持ちだ。 「移動は歩くこともありますか?」 「あります、あります!・・・・・・・で!?どうなんでしょうか??」 「靭帯ですからね・・・安静にしていて回復するのが2,3週間ですけど・・・どこへ旅行ですか?」 「え~~と・・・外国です・・」 「えっ!????」看護婦まで、揃えて言わんでよろしっ(怒泣)。 「研修かなにかですか?」 「遊びです!!!」あっ・・・またまたアタシの後ろの鬼が口を開きましたか・・・・・あ、あなた、白衣の下の、ずいぶん大きくなったお腹さすりながら言わないでくださいます・・・・・(泣)。 「もうすぐ生まれるんでしょ?」 今度は後ろの鬼め、看護婦、うるさいっ!(怒泣)。 あんたら鬼のやりとりに先生、あきれ顔じゃないかっ(違だろ)。 ・・・・で、回復の状況を待つ、というありきたりの診察と湿布と痛み止めを処方する、ということで長い長い一日が始まり、終わろうとしていた。 「・・・で、どちら方面へ行くんですか?」 「・・・・・・エムボマって知ってますか?」 「え?!」 だから、看護婦も口揃えんでよろしっ!! 「どこですか?それ?グアム??」 「・・・・カメルーンです・・・・」 「えっ!!???」今度は先生まで、三人同時に叫ぶなっ!! 「どのくらい?」 あ・・・・・ついにその質問ですか・・・ 「・・・・・・2週間くらいだったかなぁ~~(オトボケ笑)」 「えええええっ!!?」 は、ハモルのも上手になりまして・・・・・・(涙 あ・・・・鬼さんには「ちょこっとバンコクでモニョモニョ」と、告げてましたっけ?? あそこ、経由地だからあながち嘘ではないのよ、いいのよねん・・・・・。 医局でクスリをもらうとき、事務局で支払いをするとき、冷ややかな視線があちこちから向けられていた。そして、仲間どうしでささやきながら、クスリと笑うのだ(シャレではありません)。こ、殺しておけばよかった、看護婦め。 サイアクの一日の終わりと始まりだった―――――――。 「で・・・・センセイ♪自宅療養の診断書をお願いしますね♪」 結局、アタシは1週間自宅療養し、しかしながらいっこうに足の具合がよくならないまま、そのまま旅立っていった。 カメルーンへ―――。

入国審査が近づくにつれ、空港内が騒然としている空気が漂ってきた。 な、なんだ?なんなんだ?なんなんなんなんだ?この騒ぎは? 空港ビルは天から神でも降臨したかのような大騒ぎだ。 太鼓やラッパの音にすさまじい歓声が被さる。 何列かに並び待つ間が非常に長かったが、パスポートを一瞥されただけで、入国審査は無事終了した。 その間も祭りのように賑やかなこと、この上ない。 通路を曲がり、大騒ぎする集団がようやく全容を現した。 ジェンベという西・中央アフリカ独特のドラムや、トーキングドラムをガンガン叩く若い男たち、そしてその周りは赤・緑・黄色のカメルーン国旗を肩にかけた男やなかには女もちらほら。 祭りそのものなのか、パリからきた一便の観光客を歓迎するセレモニーなのか、気分悪くはない。 いや、というよりあまりにもすさまじい賑やかさにこちらまでハイになってくる。 いやいやお出迎えありがとう、ありがとう。 カメルーンいいところね、一度はおいで、だよね。 ―ズンチャカズンチャカ、ドンドコドコドドコドコドン、オーレッ、オーレッ、オーレッ― まるで、サッカーを応援するサポーターのようではないか。 ん?サッカー?サッカー・・・・・・・・。 ―えええええええええええっ!!??―― い、いま横を通り過ぎていったのは、かのエムボマさんではないかい? おお、皆揃いのブレザーに水色のシャツにネクタイ、大きなスポーツバッグを肩にかけている。 ひょっとして、ひょっとせずともこの集団は―――。 カメルーン・ナショナルサッカーチーム!!アフリカのライオンたちのなのだ!! 出迎えてくれたアタシたちのガイドによると、この騒動の真相はこうであった――。 」 カメルーン・ナショナルサッカーチームは日本・韓国共同開催ワールドカップ大会のアフリカ予選を戦っている最中だが、1週間後の地元ヤウンデでの対ザンビア戦を前に、フランス代表チームとパリのスタットドゥ・フランス競技場で親善試合を戦い終えて、その帰還がアタシたちの飛行機と同じだったのだ。 その出迎えの熱狂的なサポーターたちなのであった。 アタシたちなんかの歓迎ではなくて、ゲートを出ても彼らから邪魔扱いだった(笑)。 アタシの旅はいつもささやかで意外なフェスタな渦中にいる気がする。 どこかでなにかのめぐり合わせが偶然の出会いが、楽しい朗らかない一瞬を満喫できる。 それらは、ほんの一瞬のできごとで、手からすぐにこぼれおちそうなものだが、それでも記憶の底に沈む珠玉の思い出である。

 ちょうど、ドゥアラで宿泊したMホテルには仮面専門店があった。 アタシがショーウィンドーから眺めていてビビビときた仮面があった。 店のマダムがニッコリ微笑むのを待つまでもなく、アタシは店に直行したかったが、生憎CFAへの両替が空港では銀行がなかったためできずにいた。 急ぎフロントで両替し、スーツケースを部屋へ放り込んで、じっくり仮面を物色するつもりだったが、 例のルームキーのおかげで、再び店を訪れたときには店には硬い鉄のシャッターが締まっていた。 ビビビ光線を送ってくれた彼女(仮面たちのことです)は黙って微笑んでいるままだ―――。  そして、カメルーン滞在中、ついに仮面ショップとは出遭えなかった。 かわりにアタシは帰国してインターネットショッピングで次々とビビビな仮面をゲットしている。 ○ ブルキナファソ、モシ族のマスク ○ 赤道ギニア、ファン族マスク ○ リベリア、グレボ族マスク ○ コートジボアール、エケ族 ○ ナイジェリア、イボ族 ○ ブルキナファソ、ブワ族のマスク ○ ナイジェリア、ブヌ族のマスク

関東地域のある専門店から大きなダンボールが家に届くたび、家族に呆れかえられながら・・・・・。 アタシはいつだってガラクタをお宝に変えてみせるのが得意だ。 例えば――――。  そんな買い物上手♪のアタシも、ドゥアラからマラアに着き、カプシキへ向かう途中寄ったモコロで考えあぐねていた。―買おうか、買わまいか、買おうか、買わまいか、・・・・・・・― カラフルな女たちでとても賑わうというモコロの水曜市とやらは、すでに閑散としていた。 店畳みをはじめる彼女たちをボーッと眺めるでもなく、足が痛くて座りこんでいた。 そのとき、どこからともなくやってきた少年から差し出されたモノ。 う~~~~ん・・・・・しばらく考え込んでしまった。 二つの選択肢がこんなに大きな悩み問題だとは―――。 でも、欲しい・・・・・・・・。 どうしょうかどうしようかどうしよぉうかどうしよぉか??? それは、見たことにないくらい、やけにカラフルで大きな、生きたトカゲだった―――。

ハレの儀式は終わったようだ。 マントのリーダーが何語かわからないが挨拶をした後、さきほどまで神聖な浮遊した感覚はとたんに遮断され、踊りのためにかき集められたであろう村びとたちはザワザワとお喋りしながらゾロゾロと帰っていった。  アタシたちも旅の疲れと祝祭の興奮が入り混じった体をもたげて、それぞれのコテージに戻る。 部屋に入る前、見上げた林の梢の間から覗く空には満点の星だった。 扉の敷居に座り、しばらく星の瞬きを眺めていた。 星のまたたきを、きらめきを―――。

風がピタリと止む―――。 時計をみやると5時で、もう明け方だ。 アタシはそのままコテージを出て、朝の空気を吸い、そのままホテルの敷地を出て朝の散歩に出かけた。 ホテルの門を出たとたん、薄闇と朝靄のなかから現れたひとりの少年にまとわりつかれた。 朝日を追って薄っすら赤みがかった方角の道を行くのだが、少年は距離を置いてついて来る。 群れから離れた羊がいた。 小さな丘にはマルラという、太鼓の材料になる丸い梢と美しい密集した葉をもつ神聖な木がたっている。 やさしい空気に包まれた静かな朝だ。  しばらく歩いていると、前方の深い谷の奥に、昨夜、ルムスキィに向けて未舗装の道路を走る間、闇のなかからときどき浮かんでいたバナナを地に刺したのような奇岩が現れた。 その勇姿は、自然のミナレット(尖塔)のようでもあった。 「――九月のリュムシキは美しかった。 岩山が塔のようになって点在し、その麓は今しがた黄色い花と優しい緑に包まれていた。丸い茅を葺いた家は慎ましく、澄み切った空には上昇気流に乗ってトンビが愉快に飛び、セネガルカッコウが歓喜に満ちて鳴き競っていた。何と「ゼロ」の創造物の奏でる調和の美しいこと―――。 『楽園に帰ろう』 新妻香織 河出書房新書より―― 」 美しいものとは、なんだろうとしばしば考えてみて、いきつくところは、それは愛の確立だと思う。

トゥルのマーケットは思わぬ盛況ぶりだった。 マルアのマーケットで懲りていた一同も、トゥルではアドレナリンが上昇し興奮状態だった。 マーケットではキビやアワなどの穀物やキャッサバ、バナナを蒸したもの、ヤム芋を茹でたものなどの食料から、パパイヤ、バナナなどの果物。テコラッタの土器や壺。そして色鮮やかな女性の服や生地、男性用の服、草履、帽子、男性ムスリムが着るガラベーヤなどもあった。 これらが、縦横無尽に張り巡らされた路上に道端に広げられているのだ。 青空散髪店などもあり、ルムスキィ散策でさらに悪化した感じの痛い足を引きながらでも、興味が尽きなかった。 このマーケットでひときわ目立つのが女性たちである。 村が近づくにつれて、道を歩く女性がヘルメットを被っているのに奇妙な感じがしていたが、市場に着いて驚くことに女性の頭にはヘルメット、ヘルメット、ヘルメットなのであった。 ガイドのジュリアンによれば、これはカラバッシュというひょうたんの一種をくり貫き、染め上げ装飾をして被る帽子だそうだ。 トゥルのマーケットで最も目を引き、そして大小さまざまなこのヘルメットのような帽子もたくさん売られていた。カメルーン北部キルディ族のうちトゥル周辺部族の伝統的ファッションなのだが、アタシにとってはどこか信仰宗教のように映り、ひとりでおっかなく感じもし、おかしかった。 女性はこのヘルメットのような帽子に大きな荷物を預け、手で支えて運ぶ。 伝統的な服飾ついでに、北部山岳地帯のキルディ族の女性は、懐妊すると、健康な子どもが授かるようにマルアの木とビーズで作った人形を腰に巻きつけて持ち運びするそうだ。 持ち運びといえば、アフリカでは伝統的に女性は頭にものをのせて運ぶのだが、道中おもしろいものをみかけた。 その前にカメルーンの経済に触れておこう。国民の60%は農業に従事、輸出額の半分以上は石油により、国民総生産は1995年統計で84億ドル、1995年人口推計で1328万人の人口で、国民一人当たり630ドルである。 政府歳入の輸出総額の大半は石油(1970年代リンベ沖で海底油田が発見され石油開発が開始され、精油所がリンボー・ポイントに建設されるなどして90年代初頭に原油産出量が年間6100万バレルとなった)によるが、石油以外にもこの北部地方では高品質のボーキサイト鉱がある。 カメルーン最大の発電所があるサナガ川沿いのエデアにはカメルーン最大規模企業のひとつであるアルミニウム精錬プラントがあり、輸入ボーキサイトを原料として年間約9万2千トンを生産している。 しかし、国民の経済を支えているのは農業と林業だ。 トゥルへの途中見かけた綿花などもそうである。綿花は1kgを100CFAで政府に買い取られるそうだ。カカオ、コーヒー、タバコ、バナナなどと同じく綿花も重要なカメルーンの輸出用作物だ。 林業ではマホガニー、コクタン、チークなど木材も重要な輸出品目だ。 漁業は近年ドゥアラを拠点とした大規模漁業も盛んになりつつあり、年間約8万トンの水揚げがある。 ちなみに、カメルーンの国名は、15世紀末、沿岸部に訪れたポルトガル人がカメルーン山南部の河口付近を「リオ・ドス・カマロス(エビがたくさんいる川)」を意味するポルトガル語でよんだことに由来するらしい。

夕刻迫る5時半にモラの町に到着し、給油を行う。 モラもナイジャリアの国境がすぐ近くで、大型タンクローリーが頻繁に通る。 北部山岳地帯のガソリンスタンドはほぼナイジェリア産のガソリンらしい(笑)。 ガソリンスタンドのカフェでビールを飲んだあと、スタンドの裏を散策した。 大きなアリ塚があり、野ブタがそのまわりをウロウロしていた。 そして、そのすぐ近くで、ジュリアンの助手のジダとドライバーのサイードが小さな絨毯を広げ、礼拝をしていた。メッカがある西の太陽が沈もうとしている方角に。彼らはムスリムだとすぐにわかる。 ボスのジュリアンはクリスチャンだ。 翌日の夕方、ウジラからモラへ向う道中、教会に大勢の信者が集っていたが、アタシたちのバスを見つけるや、みんなにこやかに眺めているだけだったが、それを見てジュリアンは、 「クリスチャンはほかの宗教と違い、行儀がよい」みたいなことをジューク混じりに言ってのけた。  カメルーンは人口の約50%はキリスト教徒で南部森林地帯や南西部グラスランドの都市部などに集中している。約20%のイスラム教徒は北部山岳地帯、ステップ地帯に多い。  いずれも外部(外国人)からの改宗・流布によるのが、実はこれらの一神教はアフリカの地が発祥なのである。 約5千前よりはじまったアフリカ大陸の乾燥化(砂漠化)が一神教の成立の産物なのである。 パリからアフリカへ空路入ったとき、眼下にあったアルジャリアのタッシリナジェール。 その地域一帯にある岩にある壁画はいずれも緑豊かな時代を反映した動物たちが描かれている。 5千年前まではアフリカ全体が緑豊かな大陸であった。 生活の源である太陽、雨、水(川)、土地の肥沃、生産力あらゆる自然の恵みのあらゆる「力」を神格化・神聖化し崇拝するので自然崇拝は多神教であることは必然である。 しかしながら、緑豊かな土地が砂漠に変わるということは、雨が少なくなり、川は涸れ谷となり、泉は干上がり、土地は農作物を生み出さなくなる。 「力」が次々と消滅し、神が宿るどころか、神がいなくなるのである。 文明の曙、古代エジプトでは、大河ナイルの恩恵により砂漠化はまぬがれ緑豊かな地であった。 しかし、乾燥化は徐々に進行し、ひとびとはナイル川を唯一崇めるのだが、その偉大なナイル川の水位の変動をもつかさどる太陽がやがて唯一神となり一神教が成立したとされる。 アフリカの砂漠が一神教を成立させたのだ。

「ワザワザ、来るところでなかったですね・・・・・」 シャレもむなしく空回りで、「ワザ国立公園」をあとにし、ウジラへ向っている。  カメルーンは特徴ある自然・地理的条件のおかげで「プチ・アフリカ」または「アフリカの縮図」といわれる名に恥じず、ひとの多数の文化・部族ばかりか、アフリカで最も豊かで変化に富んだ動物相をもっている。 カメルーンでは熱帯性森林地帯のドゥアラ・エディア保護区、ジャ保護区など中南部に6つの動物保護区を、そして北部サバンナ・ステップ地帯にベヌエ国立公園、モコロ近郊のモゾゴ・ゴクロ国立公園など6つの国立公園をもつ動物天国でもある。 森林地帯ではゴリラやチンパンジー、北部サバンナではゾウ、ライオン、カバ、キリン、ヒョウと東アフリカ、ケニアやタンザニアばかり脚光を浴びる動物サファリであるが、カメルーンもなかなかどうして負けず劣らず動物観察天国なのだ。 サファリ、なつかしい響きでもある。 なかでも今回訪れたワザ国立公園は、カメルーンの国土が横を向いたキリンと例えるならちょうど目の あたりに位置するのだが、17万ヘクタールの広さをもち、西部アフリカに住む動物のすべての種類が 生息しているといわれる、カメルーン最大の動物国立公園である―――。

午後3時、ハーディたちが再びバスの屋根の荷台に荷物を積み終え、空港を離れる。 カメルーン航空が用意したホテルに向かうジュリアンにおねだりしてみた。 「ジュリアン、マルアから80キロも行けばミンディフだよ。ジダの故郷だよ。そこに行こうよ」 「行ってみましょう」ジュリアンは申し訳ない気持ちで一杯という表情は微塵にもみせず(そこはシビアなビジネス)、―これは予定外のサービスである―といったつくり笑顔をしてうなづいた。 「フジラの谷の木陰で―いつか、いつかカメルーンへ来たときは必ず君の生まれ故郷ミンディフへ行くよ!―って言っていたのが、まさかまさか、翌日行くことになるとは夢にも思わなかった(爆笑)」 アタシはジダを見やりながら高らかに笑った。ジダもヘッドフォンをつけたまま意味もわからず笑った。 愉快愉快―――、しかしアタシは決定的なことをまだよく認識していなかった。 「ねぇ、ジダ君、ファンタジアは見られないのかな?」 ジダは旅行者から拝借したヘッドフォンでまた音楽を聴いており放心状態だ。 そういえば、ジダは移動中ずっとこの状態だった。 ファンタジアはモロッコでは馬に乗った騎兵のアクロバチックなショーであるが、カメルーンでは少々趣が異なる。 「――ラーミードが外出するときはどうなるのでしょうか。――公式のときは、昔ながらの仰々しい行列を組んでいかねばなりません。そのときには、馬に乗ったマチュベ身分の重臣たち、馬に乗った徒足でラッパや太鼓を持ったバンバード(宮廷音楽隊)たち、徒足で剃髪姿のマチュベたちがターバンで顔を覆い、盛装をした馬上のラーミードを取り囲んで行進します。ラーミードにパラソルをかける者。馬から降りたラーミードが座るための椅子を運ぶ者、いろいろな役割を持ったマチュベたち、槍、佩刀、弓矢、鉄砲などを思い思いの武器を持って附き従うマチュベたちがラーミードを護衛しながら町中を歩きます―――。アフリカを知る 15人が語るその魅力と多様性」―アフリカのまちの人々の暮らし ウジジとガウンデレ、植民地に形成された二つの都市を訪れる― 日野舜也 「少年ケニヤの友東京支部編」スリエーネットワーク刊行 」  マルアから南下してミンディフの歯といわれる岩山がどんどん近くなる。 ステップの平原にポツンとあり、象徴的であり記号的であったが近くまできてルムシキィなどのそれと違い、その岩山の低さにがっかりした。ファンタジアの行列はミンディフでは観光化してはいるものの、もちろんそんなにすぐに間に合うはずもない。 村の中を見学させてもらい、ポットを作るところや、機織りしているところを見せてもらった。 帰り際、カメラの蓋を拾ってくれた女の子にガムを渡す約束をしていたのに、バスの中の鞄から取り出そうとしていたところドアが閉まりバスは出発し、その女の子と目が合い渡しそびれた後味の悪い思いをした。

人気のない森のなかに突然綿市場があった。 大量に真っ白な綿が積まれ、たくさんのひとだかりであった。  そして、森や平原からときおり妖精が現れたものだ。 道中、どこからともなく子どもたちが現れ、バスと並走しながら手を振り、口々に叫ぶのだ。 「ガドゥー」と。フェリ・フォリ・マジリと同じだ。 彼、彼女たちはめずらしく、―最後まであきらめない―、というアフリカにはないような(笑)精神に満ち溢れていた。たのもしいかぎりである。 女性ガイドのジュリアンに何を言っている意味なのか尋ねる。 「北部山岳地域のキルディ族の言葉で―ちょうだい―、よ」なんだ、そういうことだったのか(笑)。  トゥルの木曜市は驚くほど盛大に開かれており、市の手前の広場でアタシは大勢の子どもに囲まれた。 道中の友好的でけなげな、かつ微笑ましい子どもたちと違い、あきらかに眼つきが悪く恐怖すら覚えた。 彼、彼女たちは一斉にアタシに向かって言う。 「ガドゥー」と。 まるでドゥアラの明け方、目覚ましがわりだったカエルのようだ(笑)。 トゥルを離れ、今日の宿泊先ワザへ向かうため、さらにチャド方面へ北上する。 道中、岩陰や草むら、森の中とところかまわず、また大勢の子どもたちが忍者のようにどこからともなく現れてこちらに叫ぶ。 ひとりの少年はバスを必死で追いかけてこれを買わないか?と叫ぶ。 緑のカメレオンだった。 アタシは思わず窓を開け、叫んだ。 少年が後に小さくなるまで叫びつづけた。 「ガドゥーーーーーーッ」と。

その後、サハラ=エジプトの外縁シナイでユダヤ教、キリスト教が、サハラ=エジプトの隣接アラビアの砂漠でイスラム教が誕生・成立したことも明白だ。 砂漠の宗教は都市型宗教ともいえる。 イスラム教を興したムハンマドもメッカの商人であったが、都市商人の交易の対象が砂漠の遊牧民で、 交易対象のひとびとを改宗してていったため、イスラム教圏はアジア・アフリカ大陸においてインドネシアやマレーシアなどの諸島部一部を除き、ほぼ乾燥地帯と分布が一致する。 カメルーン北部は砂漠化したチャドと地続きであり、17世紀、農牧民フルベ族がウシを追いチャド湖周辺までが入り、18世紀には緑豊かな中部カメルーン、アダマワ高原まで上ってきた。  19世紀はじめ、ナイジャリア北西部のハウサ族の土地で、フルベ族のイスラム教師によりジ・ハードが起こり、呼応するかたちで北カメルーンのフルベ族の首長たちもジ・ハードに加わり各地でフルベ族の農耕民ブーム族などへの征服とイスラム改宗が進み、北カメルーンは一部を除き、フルベ族イスラム勢力の支配下となった。 フルベ族はほぼ部族宗教ともいえるイスラム教徒=ジュルド(複数ジェルベ)と呼び異教徒と区別した。北部カメルーンではフルベ族のほかカヌリ族、ハウサ族、マンダラ族をジェルベと呼び、異教徒をカード(複数はハーベ)と呼ぶ。 一方、キリスト教はイスラム教が砂漠化した北アフリカの遊牧民・都市部への伝播にとどまったのを、遅れること18世紀、宣教師派遣による文化・宗教伝播活動と経済的・政治的支配の植民地化という表裏一体の政策により、ジャングル奥深く、大河からはずれた支流の小村・部族などへも伝播していった。 自然の変化とは民族そのものとも深く関わってきたのである。  マルア、モラもフルベ族が多く分布する町である。 ジュリアンがどうしてキリスト教徒なのか、また彼女の部族も聞かなかった。 フルベ族はたくさんのサレがひと集落をなすことで見てきたように一夫多妻制だ。 夫をともにする女性はそれぞれ別の妻から身を守り、富を得るためお守りのようなものを首につけ、 髪に縫い付ける。そのうえにスカーフを巻き頭も守る。このように護符を身につけることはアフリカの黒人ムスリムの特徴であるらしい。  ジダとサイードの礼拝も終えたようで出発となった。 すっかり日没となったが、ワザはまだ遠い。

カメルーンでの食事を書き記しておこう。 アフリカン・フードの主食は何といってもアフリカ共通の穀物の粉を練ったものである。 ナイジャリアやカメルーンなどコンゴ(旧ザイール)以西ではではフーフーと呼ぶ。ちなみに日本人に最もポピュラーなのはケニア、タンザニアなどのウガリである。南アフリカではパップ、ジンバブエではサザ、ザンビアではシマと呼び名や作り方なども多少各地域さまざまだが、主にトウモロコシの粉を根気強く練ったものである。日本の蕎麦がきと同じような食感だ。トウモロコシに限らず、ヤムイモ、キャッサバなどもフーフーの主要な原料だ。ちょっと発酵臭があり酸っぱいキャッサバのフーフーはガリと呼ばれる。 キャッサバを乾燥して粉にしたものを練ったある程度日持ちする黄色い餅のようなエバ。旧ザイールではクワンガと呼ばれ中央アフリカではポピュラーなフーフーだ。 ドゥアラからバフサムに向かう道中、お腹がすいてたまらなくなり深夜の路上キオスクでこれを買った。棒状にして笹のようなものにくるんで売っていた。お腹がすいていたこともあったが美味しかった。 ういろうにそっくりの食感と味である。3つで100CFA。 ちなみに、おやつがわりにこえまた路上キオスクで買った木にさしたトウモロコシ炭火焼一本も100CFAだった。

路地という路地からリンガラ音楽が流れる。そして、人々は各々好みの食を買い込み、バーへ向う。バーといっても路地のいたるところに並べられた椅子があるだけだ。しかも、メニュウは冷えてない例のビールのみ。ここで大音量の最新のリンガラ音楽が流れる。最近では、出稼ぎによるパリ経由のリンガラのほうが人々の憧れであるようだ。そのうち、誰彼となく、お気に入りの曲に合わせて踊り出す。通行人も、物売りさえも加わり、いつしか聖なる夜にかわるのだ。こうして、今晩も明日の晩も、祭りの夜が更けていく――――。

キャッサバ、トウモロコシと同じくヤムイモも主要食材だ。ヤムイモを茹でて、餅状にしたふんわりした食感のパウンデッド・ヤム。 ヤムイモを乾燥して粉にしたものを練った茶色い餅のようなアマラ。 米や小麦粉で作ったフーフーはセモビタと呼び、日本人にも食べやすい餅そのものだ。 これら、総称してフーフーを肉の切れ端などが浮かんだスープと一緒に手で巧みにまるめて口に運ぶのが正しい現地の食べ方だ。 おかずが一品あればまだましなほうで、家庭ではフーフーだけの食事というのが一般的だ。ソジャというきなこ、醤油、そして砂糖などをつけたり、カランガというピーナッツのペーストをつけて食べたりする。 ほかに主食では甘くない食用バナナをスライスしてヤシ油で揚げたプランテン。  これらの主食におかずを一品つけるのが家庭料理でも食堂でも定番だ。国民の20%いるムスリム以外は肉に関してタブーはない。 食堂だと、鶏、羊、牛、腸などのモツ、魚など材料を選び、基本的な味つけを選ぶ。 オクラやモロヘイヤなどを細かく刻んだネバネバ系のスープ、オクロ。 そして、苦味のある青菜と一緒に煮込んだカボチャの種をすり潰したおからのようなスープ。 トマトベースのシチュウは食べやすく最も安心する味だ。 そしてカメルーンは、西アフリカと同じく米もかなり栽培されており、ごはんも一般的だ。 ごはんに辛い肉汁などをかけたリ・ソース(ぶっかけごはん)はドゥアラの屋台や安食堂などで最もポピュラーな食べ物だ。

ホテルに戻り、ワザの大平原を一望に見渡すことができるレストランのテラスで昼食。 キャベツのサラダにナマズのフライ、そしてジャガイモの煮込み。 そして、休息をとったあと、ケニアと同じく日没前のサファリ。 「こんどはたのむでぇ~」とワザ国立公園専属のレインジャーにハッパをかける。 しかし、約3時間、レインジャーが指示する道行けども、サイードが運転する我らがバスの車中みたのは、トムソンガゼルの行列、一匹のジャッカル、イポットラー・アンテロープ、車の音にびっくりして森の中に逃げて行ったキリン・・・・・・・以上である。 月夜のサバンナをホテルに帰る車中、皆ついにだまりこんでしまった。 「今度来たときはたのむでぇ~~」 最後部席でふんぞりかえっていたアタシは誰に言うでもなく嘲笑をこめて叫んだ。 車中は冷ややかな笑いが洩れたのみだった―――。

「さあ、飽きるほど動物を見よう~~」 ワザ国立公園に隣接した、広大な敷地に点在したコテージ(こちらはルムスキィどころか、丘の上にレストランなどの本館があり、アタシのコテージは最も遠い麓の入口近くのコテージだった<涙>)を時間をかけて何往復もしたのだ。 今日一日はバスのなかでゆったりまったり動物ウオッチングといきましょう。 しかし、早朝6時30分、スタート―――。 正午過ぎて12:30分。 約6時間の間で見たのは枯れたブッシュと、道よりかなり遠くのブッシュにトピ数匹、アンテロープ(コープ)、そして赤アカシアの木にペリカンやアフリカハゲコウ(マラブー)・・・・・・・これだけなんですけど・・・・・。  

日中の一番暑い盛りに無為にときは過ぎていく。 アタシはこれまでよく知らなかったジッダとしばらく話をした。 彼は片言ながら英語が喋れるようだ。お互いが片言の英語というのは、一番コミュニケーションがとれるというものだ(笑)。 彼はマルア北の近郊ミンディフ村の出身だ。今彼はマルアでひとり暮らしだが、機織をする母親が顕在で幼い弟や妹も暮らしており、彼は8人兄弟の長男らしい。 ミンディフは、祭礼ともなると色とりどりの民族衣装の騎士たちが、馬に乗ってファンタジアを行う。 モロッコなど北アフリカでおなじみのイスラムの祭だ。 ヒデ族はフルベ族を馬に乗った民、という意味のプラサルと呼ぶことに頷ける。 ジダは、ミディフの観光パンフレットをアタシにくれ、ドイツ人、カナダ人など多くの旅行者が訪れ、彼の実家に宿泊したときの写真を交えその様子を楽しそうに話してくれた。 彼の実家のすぐ裏には「ミンディフの歯」と呼ばれる岩山があり、ロッククライマーに人気のスポットらしい。彼は誇らしげにそのことをアタシになんとか伝えようとし、ぜひミンディフへと誘われた。 「いつか、いつかカメルーンへ来たときは必ず君の生まれ故郷ミンディフへ行くよ!」

言葉について少し尋ねた。このフジラの子どもたちの話す言葉はジダにも全然わからないらしい。 彼にミンディフの言葉を少し教わった。 「おはようはジャンバルナ、ありがとうはウセコ、すみませんはセーファン、ごめんなさいはミソミ、 ママはジャヴァン、美しいはボドゥン、お金はファンドゥラン、水はリアム、こんばんわはホシラリジャマ、さようならはセイエリ―――」こんなところだ。これくらい知っていればコミュニケーションは成り立つ(笑)。あとはメシぐらいか(笑) 「もうとっくにお昼過ぎてるんですけど(苦笑)」 彼は真顔に戻り、慌ててバスに行って籠を持ってきた。 そこから取り出したポットのお湯で、即席の「LIPO」という甘い甘いコンシデレンスミルクのサービスを受けた。あんまり好みではなかったがそれを飲み干した。 そして、木陰で遊んでいる子供たちやジダから離れ、再びスケッチにとりかかった。 村は岩山に囲まれた谷にあたり、家々はところどころ点在する。サレに似ているがそれぞれが独立した家だ。むしろブルキナファソなどのモシ族の家に似ている。 緑はアカシアのほか、真っ直ぐのびた数本のパルメイヤヤシ、そして、柱に扇子をつけたような、旅の木に似た形をしたユーフォルビア・インゲスというサボテンが家のある谷や岩山に点在している。 大きな実をつけた葉も多い、幹が松に似た木に赤と青色のトカゲがいる。はじめて見る種類だ。さきほどのモラのドライブインでもこれとは違う灰色一色だった。 カメルーンはほんとうに色々な種類のトカゲがいるものだ。 スケッチを終えて、顔をあげると太陽の軌道は頂点からだいぶ西に傾きかけていた。 今日も快晴だ。明日にはもう北カメルーンを離れるときがやってくる。 子どもたちが遊ぶ歓声がとてもなつかしい気にさせられる。

――――ルウェンゾリ山の氷河の雫から始まり、悠久からとうとうと流れる大河、ザイール川。 それを取り囲む、西ヨーロッパがすっぽり入ってしまうほどの濃緑の原生林。 その圧倒的な自然のなかで、人々は蠢き、慟哭し、欺瞞に満ち溢れながらも、その自然に溶け込みながら暮らす人々の顔もある。ジャングルに忽然と蜃気楼のように姿を現す熱気と混沌の大都市、キンシャサ。アフリカ大陸がこよなく愛する、リンガラ音楽が街中に溢れ、通りという通りでは、ベルギー仕込みのPURIMUS BEERの栓が抜かれ、その音までもが、リンガラの音色を彩る。うだるような日中に、明日食うものすらありつけない様でも、無邪気で素直で屈託のない笑顔だってある。男も女も老人も子どももおばさんも物売りもこそ泥も不具者も、踊って一日を終える。明日も踊って暮らす。それもザイールの顔だ。ザイール川下流部にあるキンシャサ。人口450万人にのぼるアフリカのパリと謳われたビジネス街の栄華も、度重なる内乱と暴動で、廃墟同然のビルも連なり、その面影を偲ぶことすらできない。 しかし、ダウンタウンの町、マトンゲ地区は対照的に熱気に満ち溢れている。カサブヴ通りとビィクトワール通りが交差する通称ビィクトワール広場は最も華やかで賑やかな中心地だ。 日暮れ時ともなると、ビィクトワール広場には様々な屋台が軒を連ねる。キャッサバを練って蒸したフーフー。キャッサバの葉を杵でついてから魚や肉の出汁で煮込んだポンドゥ。豆を煮込んだマハラギ。キャッサバを蒸した餅のようなクワンガ。これをソジャ(きなこ)と砂糖、魚醤をつけたり、カランガというピーナッツのペーストをつけて食べる。刻みネギをすり込ませて焼いたアジ。ナマズ。フランスパンのサンドイッチ。濃厚な味のゆで卵。キャッサバの葉をくるんで蒸し焼きにしたモツの煮込み。肉の串焼きともなると千差万別だ。牛、鶏、カモシカ、ワニ、カバ(!)、野ネズミ、オウム、チンパンジー(!)、ゴリラ(おいおい!)、なんと国の象徴でもある珍獣オカピまで!!!!!!!サルの燻製はマカコと呼ばれ、日常食だ。 それらの屋台のあちこちからモクモクと煙が立ち昇り、裸電球に飾られた路地は一種の日常のなかの「ハレの日」となる。

早朝、バフサムを出発する。 朝日がまだ昇らないうちにフンバンへ向かいスルタンの宮殿跡博物館を見学し、急ぎバフサムに戻り荷物をまとめてバンジュン村、バロンビ湖と昨日周れなかったコースと今日予定のコースを一日かけて急ぎ足で巡るそうである。 しかも今夜はドゥアラまで帰り、パリへ向けて旅立つ日だ。  密林に覆われた辺りは重ねるように朝靄がかかり、薄闇の西の空が明るみ出す頃に今日がとても晴れた朝だということがようやくわかってきた。  昨日ドゥアラから5時間かけて走ってきたグラスランドは高原地帯でありながらも北カメルーンとは明らかに違う植生豊かな地帯だ。  ガソリンスタンドで給油をしていると、小型トラックが隣に滑り込んできた。 荷台にはわんさか子どもが乗っている。 「今からバナナ園でバナナの収穫をするためかき集められたのだ」とバレンタインが説明してくれた。 本当に赤々とした赤土と小さな形も様々で色とりどりのモスクが印象的な道のりだった。キャッサバ畑や松林、ナツメヤシ、パレミアヤシなど飽きることのない景色だ。

山から太陽が昇りはじめ、約1時間でフンバンに着いた。 道沿いは青と水色の制服を着た小学生が大勢登校している。 そんな朝早くに、アフリカのポレポレ精神の世界でよくぞ博物館が開いているものだと感心し、一方で学校へ通う子もいれば、バナナ園に送り込まれる子どもたちもいるのだ、という現実を考えさせられた。  フンバンはバムン族の町である。 カメルーンのグラスランドには大小様々な規模のマンコンと呼ばれる王政社会があった。 マンコンはフォンと呼ばれる王に統治され、とりわけバムン族は部族間の統合もはたして、王政部族国家ともいうべき集権社会を形成していた。 そのかつての首都がフンバンにあり、各部族内のフォンを統治したムスリム風にスルタンと呼ばれる王が住んでいた宮殿が現在博物館として開放されている。これまで見てきたカメルーンの部族の宮殿は、王宮といえども民家と変わらぬ小屋同然であったが、ここスルタンの王宮は3階建ての大きな家だ。 13世紀から統治した王、バムン族の歴史やバムンの伝統的工芸や仮面が多くあり、バムン族ひいてはグラスランドを知る上では貴重な博物館といえる。 この王宮があったフンバンをはじめバムン族が住むのはグラスランドでも山間部に位置し、この博物館をまわっただけでも、バムン族は戦闘的な戦士という印象があるが、そのとおりドイツがグラスランド山間部に侵攻してきたき、勇敢に戦ったという伝承が残っている。 しかし、バレンタインの説明によると、1902年、ドイツがフンバンに到着したとき、当時のバムン族の王ジョヤは威厳をもって接見し、ドイツ軍と交易などについて平和的なうちに交渉したというほうが正しいらしい。

呪いがあったのか、なかったのか。アフリカに長く続く勝利の儀式は、W杯でも不気味な影を落すことになりそうだ。呪術はアフリカでは生活に深く浸透しており、サッカーとのかかわりも当然のように大きい。チームの勝利を願って、動物の血を体に塗ったり、相手シュートが外れるように祈りをささげる。また呪術師がチームドクターとして帯同し、選手が負傷すると祈りで治療を行うこともある。1990年のW杯イタリア大会ではカメルーンが開幕戦で前回優勝のアルゼンチンを破る大波乱を演じたときも選手が「祈りが通じた」と一部で呪い効果がささやかれた。  しかしこのネガティブなイメージをぬぐい去るため、アフリカ連盟(CAF)は今大会での、呪術を禁止した―――。 相手を不幸に追いやるため、相手からの呪術から身を守るため、いたちごっこの呪術合戦に歯止めをかけた。そもそも人間の勝手のために生贄になる小動物の命も救われた。黒魔術とは、他人を傷つけたりするなど攻撃的な呪文を中心とした呪術だ。悪魔を召喚して契約を行い、願いをかなえる代わりに悪魔に代償を払う。悪魔と契約することから、魔術をかけた本人も生命にかかわる危険を伴うといわれる。  フランスとの親善試合を終え、パリから帰国するカメルーンチームと同じ飛行機だったこともあり、またアタシが滞在中ザンビアとのW杯予選大会をヤウンデで戦うこともあり、すっかりカメルーンびいきとなった。 しかし、アタシはフランスの、シャンパンのようにはじけるファンタスティックなサッカーが世界一好きだ(笑)。 おしむらくば、もっともっと体力と規律とを持ち合わせて、本来持つイマジネーションある芸術的をさらに高度なものにしたサッカーでアタシ(たち)を魅了して欲しいと願う。 そのフランスは前回のフランス大会に次いで2連覇がかかっていたが、日本韓国W杯本大会では、ものの見事に予選落ち、おまけに不屈のライオン、カメルーンも予選落ちという、ファンタジアであった(涙)。 なにかに、なにかに呪われていたのだ。 それが一体誰なのか? アタシは、マルアからルムシキィに向かう途中下車し、夕焼けに映えた平原のなかで悠々と一本のバオバブの幹の裏にまわりを散策していた―――。 バオバブは太古から神が宿る木として崇められてきたそうだ―――。 アタシはその幹元に放水(尿)したことをフィードバックしていた―――――。 私たちは、気づかないでいるけど、いつも何かに繋がっている。 かと、思えば、実は何にも繋がっていなかったりもする。 偶然というカタルシス、それがいつも「何かを物語る」ということは振り返ってみて初めてわかるような仕組みになっている。 そして、旅の終わりはいつもいつもセンチになる。 おしまい

バンジュン村のバミレケ族の王宮に着いた。 シェフリーと呼ばれる王はバミレケ族一の権力者だ。カメルーン政府は彼ら王族の協力なしには200を超える部族が住む国家を安定的に統治することはできない。 バンジュンの王宮はバンプーという木(竹)で造られ藁葺き屋根の非常に立派な家だ。王宮から広場に向かう両サイドには王宮より小ぶりなバンプーの家が連なり、28人の妻が暮らしてるという。 広場ではなんと本殿が解体されていた。 本日は、ここでツォ(TSO)と呼ばれるバミレケ族の仮面ダンスのなかでも最も華やかなダンスを見学する予定だったのだが。 バンジュンを案内する男は通訳をしてくれたコーディネイター・バレンタインを通して驚くべき発言。 「5年に一度、王宮は解体されあらたに建設される。それが習わしだ。建設工事は3週間前から始まっている。王宮建設期間中は仮面の踊りが披露されることはない」 なんともあっさり言うではないか。 バレンタインは焦ってしまうが、バナ村にある彼らカムツアー(CAM TOUR)のボス、マイケル・ニジェンクの家でアレンジされているそうだ。 しかし、王宮で踊られる仮面ダンスと民家でかき集められたひとたちで踊られる仮面ダンスではかなりの隔たりがあるのではと一抹の不安を覚えずにはいられなかった。 しかし、それは取り越し苦労で(?)アタシたちは比較する術すら与えられなかったのである――。

そうとも知らず、アタシたちは元王宮があった広場横のバミレケ族の博物館を見学する。 博物館はフンバンの王宮以上に小さな小屋に所狭しと並べられていた。 王の象徴である像の仮面、水牛仮面、鳥の形をした頭上面、マングローブの木琴、ジャンベのような太鼓、かばの剥製、タカラ貝でできた椅子、ビーズで色どられた王の椅子、ビーズの人形、豹やライオンの毛皮、ダチョウの羽根でできた帽子、象牙などである。  博物館は仮面舞踏に使われるものが多くあった。 幻となったバンジュン村の仮面ダンス――。 「―― ベミレケ族のツォと呼ばれる仮面ダンスは数ある仮面ダンスの中でも最も華やかに人目を引く大スペクタクルで王の威信と活力を示す。この仮面ダンスはお祝いの儀式の時だけでなく、葬式でも登場する。仮面ダンスを行う秘密結社のメンバー達は、赤い縁取りのある藍絞りの衣装に鳥の羽でできたヘッドドレスを付けて練り歩く。王は、王権の象徴である“ゾウ”を象ったビーズ刺繍の仮面を被る。 ビーズ刺繍は“富”の象徴でもあるが、ゾウの仮面には丸い大きな耳と長い鼻を思わせる前垂れがあり、 ユーモラスである。王はこのゾウ仮面を被り、手には大きな蝿追い、背には豹の毛皮を背負って登場する――。 『アフリカのかたち』 小川弘 里文社 」 それらをわずか1時間で見学し、バンジュン村をあとにした。 とにかく、今日中にドゥアラに着き、パリ行きの飛行機に乗らなくてはならないのだ。 これまで散々予定が狂わされてきたカメルーン滞在もさすがにそこまではいかないだろう。 しかし、アタシは密かにパリ行きの飛行機が翌日に延びないかと願っていた。もう2度と来られないかもしれないカメルーン滞在が少々延びるほうが、帰ってからの心配よりも重要だ。 旅のおかげで感覚が麻痺しているせいか、足の調子は一体全体回復に向かっているのか悪化しているのか皆目わからなくなっていた(笑)。

会長宅は赤茶色のデコボコ道を行き、バニ村の人里離れた別荘のような趣の豪奢な家だ。 立派な門には旅人の木が迎え、色とりどりの花が軒を添える。庭にはプールまである。 庭の東屋にはテーブルが置かれ、そこにご馳走が用意されていた。 これまでカメルーンを旅してきて食べた食事のオンパレードといった感じだ。 鶏の炭火焼、ソーセージ、ハム類、ステーキ、羊肉煮込み、魚のフライ、魚の燻製、ゆで卵、タロイモ、 ヤムイモの茹でもの、バナナのチップス、モロヘイヤの煮込み、野菜の煮込み、インゲン、フライドポテト、マンゴー、パパイヤ、スイカ、パン類、ジャム各種―――。 これらがテーブル所狭しとばかりに、大皿にテンコ盛りでアタシたちを歓迎してくれていたのだ。 カメルーンの庶民の日常食からはずいぶんかけ離れたご馳走である。  カメルーンでの食事を書き記しておこう。 アフリカン・フードの主食は何といってもアフリカ共通の穀物の粉を練ったものである。 ナイジャリアやカメルーンなどコンゴ(旧ザイール)以西ではではフーフーと呼ぶ。ちなみに日本人に最もポピュラーなのはケニア、タンザニアなどのウガリである。南アフリカではパップ、ジンバブエではサザ、ザンビアではシマと呼び名や作り方なども多少各地域さまざまだが、主にトウモロコシの粉を根気強く練ったものである。日本の蕎麦がきと同じような食感だ。トウモロコシに限らず、ヤムイモ、キャッサバなどもフーフーの主要な原料だ。ちょっと発酵臭があり酸っぱいキャッサバのフーフーはガリと呼ばれる。 キャッサバを乾燥して粉にしたものを練ったある程度日持ちする黄色い餅のようなエバ。旧ザイールではクワンガと呼ばれ中央アフリカではポピュラーなフーフーだ。 ドゥアラからバフサムに向かう道中、お腹がすいてたまらなくなり深夜の路上キオスクでこれを買った。棒状にして笹のようなものにくるんで売っていた。お腹がすいていたこともあったが美味しかった。 ういろうにそっくりの食感と味である。3つで100CFA。 ちなみに、おやつがわりにこえまた路上キオスクで買った木にさしたトウモロコシ炭火焼一本も100CFAだった。 キャッサバ、トウモロコシと同じくヤムイモも主要食材だ。ヤムイモを茹でて、餅状にしたふんわりした食感のパウンデッド・ヤム。 ヤムイモを乾燥して粉にしたものを練った茶色い餅のようなアマラ。 米や小麦粉で作ったフーフーはセモビタと呼び、日本人にも食べやすい餅そのものだ。 これら、総称してフーフーを肉の切れ端などが浮かんだスープと一緒に手で巧みにまるめて口に運ぶのが正しい現地の食べ方だ。 おかずが一品あればまだましなほうで、家庭ではフーフーだけの食事というのが一般的だ。ソジャというきなこ、醤油、そして砂糖などをつけたり、カランガというピーナッツのペーストをつけて食べたりする。

ほかに主食では甘くない食用バナナをスライスしてヤシ油で揚げたプランテン。  これらの主食におかずを一品つけるのが家庭料理でも食堂でも定番だ。国民の20%いるムスリム以外は肉に関してタブーはない。 食堂だと、鶏、羊、牛、腸などのモツ、魚など材料を選び、基本的な味つけを選ぶ。 オクラやモロヘイヤなどを細かく刻んだネバネバ系のスープ、オクロ。 そして、苦味のある青菜と一緒に煮込んだカボチャの種をすり潰したおからのようなスープ。 トマトベースのシチュウは食べやすく最も安心する味だ。 そしてカメルーンは、西アフリカと同じく米もかなり栽培されており、ごはんも一般的だ。 ごはんに辛い肉汁などをかけたリ・ソース(ぶっかけごはん)はドゥアラの屋台や安食堂などで最もポピュラーな食べ物だ。 西アフリカ、セネガル経由で入ってきたパエリア風のたきこみごはんもある。 豆をすり潰して天ぷらのように揚げたものはエジプトのターメイヤと似ており、アカラという。 ナイジェリア国境辺りのグラスランドではこれにペペというとても辛いペーストをつけて食べるのが定番だ。  屋台で売られる食べ物はポフポフという丸い小さなドーナツがある。北部モラのドライブインでドライバーのサーディが「サンフランという」と教えてくれたものも同じで小麦粉を揚げたものだ。 ドゥアラなど都会では、ポフポフにもバナナ味とプレーン味がありどちらもおいしい。 肉やレバーにスパイスをまぶし串にさして焼いたものはソヤといわれ美味い。 魚は燻製にして売られていることが多い。燻製を煮込んだり、焼いたり、揚げたりして調理する。 マルアで食べたナマズのフライはチャド湖から届く燻製ものだった。 西アフリカに多く移住しているレバノン人のシャワルマ(シシケガブ)が影響しているのだ。 野菜は種類が乏しく、ホテルなどでも牛、豚、うさぎ、鶏、ホロホロ鳥と続いた肉の付け合せには、ジャガイモを揚げたり茹でたり、そしてインゲン豆の茹でたものがほとんどであった。 生野菜のサラダでは、マルアのホテルで食べたニンジンのみのマユネーズ和えが美味しかった。

アフリカ諸国は食事をはじめとした文化は旧植民地国の影響が色濃い。 カメルーンでも英語圏は食パン、フランス語圏はフランスパンと、朝食が違うのがおもしろかった。 フランス植民地だったドゥアラにはベトナム料理、中国料理の店が何軒かある。 残念ながら(別になくてもいいんだけど)カメルーン一の都会ドゥアラにも首都ヤウンデにも日本食のレストランがあるという情報は得ていない。 そして忘れてならないのは、ポテトフライとフライドチキンはあらゆる国・地域のローカルフード化しているということだ。 カメルーンの現地食に合わないひとが腹がすいでも、朝屋台で売られる焼きたてのフランスパンと揚げたてのポテトフライがあれば旅行を押し通すことも、生きていくことも可能なのだ―――。  

――さて、宇宙(物質界)に『性と死』の誕生です。  これにより物質=生命の諸機能はさらに改良が進んでいきます。 エネルギーの製造方法を淘汰することにより、養分の糖質を用いて代謝能力を高め、運動を行ったり、また感覚というセンサーが発達して生体の活動を調整し始めるようになりました。 そして、動物と植物と枝分かれの道を歩みはじめます。植物は、その不動性により無駄なエネルギーを使わない、より経済的な道を歩みはじめるのです。 これら進化の過程に意図は存在せず、また環境が直接影響するものではありません。 環境はミトコンドリアを介して、細胞のふるまいに影響を与えると考えられています。 そして自然淘汰という原理は現在でも有効なのですが、時とともに不適応な種が排除されていきます。ただし、この現象を理解するには時というものを考慮して、世代から世代へと続く長い連鎖のなかで何億年もかけた緩やかな変化とうことに思いを馳せなければなりません。  しかし、進化の過程もほんの些細な出来事から思わぬ幸運をもたらしたようです・・・。 脊椎動物の祖先であるピカイアが存在しなかったら、恐竜が絶滅しなかったら、そのとき原猿類が生き延びていなかったら・・・・・。 進化の歴史に意図はないと申しましたが、結果として必ず複雑性が増します。  私たちの脳は三層構造のなかに進化の記憶を保存しています。遺伝子をしかりです。 しかも、細胞の化学組成となっているのは『原始の海のしずく』なわけですから、私たちは自分の誕生の母体となった環境を自身の内部に保っているのです。 私たちも、起源の歴史を語っているのです。

―――さて、約7000万年前の白亜紀末期の第3期といわれる時間軸まで遡りましょう。 この時期、生き残っていた恐竜もほとんど絶滅し、現在の北アメリカ、ヨーロッパ、グリーンランドが地続きであったのですが、この地に小さな小さな動物が誕生します。 最古の霊長類といわれるプルガトリウスです。 彼らは樹上生活をし、果実などを食べていたそうです。 この果実を食べる、という食習慣はまさしく地球の植物相の劇的な変化の現れでもあったのです。このネズミほどの大きさのサルたちが出現する以前の植物相は花を咲かせる植物は出現していませんでした。 最古の霊長類の誕生とほぼ同時期に花を咲かせる植物、ひいては果実が実る植物がこの地球上に誕生したのです。 新たな環境を征したサルたちに解剖学的な変化が次々と(ただし長い時間軸とここでも捉えてください)現れるようになります。たとえば、鎖骨の発達という新機軸です。このプルガトリウスは食虫類から進化したとされていますので劇的な新機軸といえるでしょう。  こうした小型の霊長類はユーラシア大陸へ、続いて現在のアラビア・アフリカ大陸へと広がっていきました。 約3500万年前、広大な熱帯雨林に覆われていたアフリカ大陸に人類やチンパンジー、ゴリラなどの共通の祖先、高等霊長類が誕生しました。エジプトの砂漠で発見され、エジプトピテクスと名づけられたネコほどの頭蓋骨のサルで脳全体の容積が約40ccでありました。  脳を得たおかげで、中枢神経の発達を促し、臭覚より視覚が勝るようになります。彼らは樹上生活でしたが、モノを立体的に見られるようになったのです。一種のコミュニケーションという社会的行動も見られるようになりました。  さて、約1700万年前、プルガトリウスの子孫プロコンスルという脳容積150cc、体系はチンパンジーほどの大きさの猿が東アフリカの森林にいたころ、地球上に大きな地理的変動がありました。アフリカ・ヨーロッパ・アジアプレートが一つに繋がったのです。 アフリカのサルたちは大陸を繋ぐ地峡を渡り、ヨーロッパやアジアに広がっていきました。 進化の結果、新たなサルも誕生しました。 ケニアピテクス、ドリオピテクス、ラマピテクスなどです。 そして、約700万年前、放射線同位元素による年代決定という技術の発達や相次ぐ化石発掘により、ケニアピテクスに近い、もしくはこれらがヒトとサルの共通の祖先と言われていますが、これらの発掘された化石を年代順に重ね合わせてみれば、人類の祖とされるサルの移動は明らかで、おのずと、アフリカのごく限られた地域で発生し、ゆっくりとアフリカ各地へ次いで世界全体へ広がっていったとされます。 長い間チンパンジーの親戚といわれていたアウストラロピテクスが人類揺籃の祖であることは今や定説となっているのはご存知でしょう。 私たちは、昆虫を食べることから、花の誕生とともに果実を食べることから始まりました。

カエルの鳴き声に目が覚める。 厚い雲に月が透けて見えていたと思ったら、それは太陽だった。 ホテルを出て、少し散歩してみる。 次々とツバメのような鳥が巣から飛び交いホウオウボクの木の葉が揺れつづける。 ホテルの道向かいはキオスクが数件並んでいた。 早朝だというのに、もう仕度をはじめているひと、さっそく「煙草を買わないか?」と寄ってきた。 箱売りではなく、バラにした本数売り。 アタシは苦笑いしながら、マルボロを一箱買った。500CFA(セーファフラン)である。  この通貨単位は、中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC、1973年設立)に加盟するカメルーン、チャド、中央アフリカ、赤道ギニア、ガボンなどの共通通貨で、中部アフリカ諸国銀行(本部はカメルーンの首都ヤウンデにある)で発行される。 レートは、植民地時代にはナイジェリアに近い5分の1以外の国土はフランスに統治されていた影響で、 1フランスフラン(FF)と100CFACFAで固定されている。 因みに、1$は当時(2001年春)のレートで120円=620CFAであった。 カメルーンではナイジェリアの通貨ナイラも両替可であり、またT/Cのコミッションが5~7%と高いので、できるだけキャッシュ特に数えやすいFFに両替したほうが有利である。 昨晩はじめて通貨を使ったのは皆からは大いに遅れて食べ損ねるところだった夕食時である。 水のボトルが1400CFA、そしてアフリカで最もポピュラーなビール、プレミアが1100CFAであった。  アタシは今日、北部カメルーンの町マウラへ行くため、バスでドゥアラへ向かう途中、何気にドライバーがかけていた音楽テープがいたく気に入り、ケース無し、録音したテープで雑音あり、にもかかわらず、ドライバーに頼み込み、空港到着後、3000CFAで買い求めていた。 今回のカメルーンの旅は、前回のケニアの旅ではまりにはまっている―リンガラ音楽に触れるため―の 旅という主題があった。 しかし、買ったテープはリンガラではなく、どうやらカメルーンの民謡ポップスであったらしい。 リンガラと共通した甘いフレーズのメロディとテンポよくリズミカルな音楽で見分け(聴き分け?)がつかないのだ。

リンガラともうひとつ、ケニアの旅で果たすことができなかった買い物をも求めていた。 それは仮面である――。 大小200の部族があるとされるプチ・アフリカ=カメルーンばかりでなく、マリ、ドゴン族をはじめ西アフリカ、中央アフリカの仮面を物色しようと意気込んでいた。  ちょうど、ドゥアラで宿泊したMホテルには仮面専門店があった。 アタシがショーウィンドーから眺めていてビビビときた仮面があった。 店のマダムがニッコリ微笑むのを待つまでもなく、アタシは店に直行したかったが、生憎CFAへの両替が空港では銀行がなかったためできずにいた。 急ぎフロントで両替し、スーツケースを部屋へ放り込んで、じっくり仮面を物色するつもりだったが、 例のルームキーのおかげで、再び店を訪れたときには店には硬い鉄のシャッターが締まっていた。 ビビビ光線を送ってくれた彼女(仮面たちのことです)は黙って微笑んでいるままだ―――。  そして、カメルーン滞在中、ついに仮面ショップとは出遭えなかった。 かわりにアタシは帰国してインターネットショッピングで次々とビビビな仮面をゲットしている。 ○ ブルキナファソ、モシ族のマスク ○ 赤道ギニア、ファン族マスク ○ リベリア、グレボ族マスク ○ コートジボアール、エケ族 ○ ナイジェリア、イボ族 ○ ブルキナファソ、ブワ族のマスク ○ ナイジェリア、ブヌ族のマスク 関東地域のある専門店から大きなダンボールが家に届くたび、家族に呆れかえられながら・・・・・。 アタシはいつだってガラクタをお宝に変えてみせるのが得意だ。 例えば――――。

フクロウに出遭ったコウノトリの町で―due(第2)―  さて、城崎の土産物屋でふと目に留まったフクロウさんです―――――。  店の軒をくぐり、ふらり入ったとたん、フクロウと眼が合いましたの・・・・・。 ビビビ~~♪と感じるものがあったのです。 運命を信じますか? アタシは出遭いはいつも運命だと信じて疑いませんの。ですから、一期一会の刹那を人の百倍【楽しむ】性質なんです・・・・・。 手に触れてみる。 お手玉のような小豆が入ったような感触。和風な衣で包まれたツガイのフクロウさんです。 フクロウが申すには・・・。 「貴方に出会えてよかった・・・」 アタシ自身へのすばらしい旅の想い出に、いつもセンスのよい自分へのご褒美・・・・。 お家の仲間たち?を回想せずにはいられませんの、センスがキラリ♪と光る数々の――――。 ●スペイン、マドリッドの蚤の市にて♪ ガラクタ市の名称ふさわしい、ガラクタの中から発見!したスカーフ。店主申します。 「お兄さん、眼がタケェ~や・・これはカルメンが使ってたスカーフだぜ」 ああ、ペルシア様式のような文様といい、色使いといい・・・・ビビビ! 今では家の「内!風呂敷」になってます。 ●トルコ、緑の町ブルサにて♪ イズミックスタイルの陶器探してましたの。 とある土産物屋・・ビビビ!ときましたの。 「おう!友よ!わかる人にしかこれは譲れないのだよ。ん?10マントルキッシュリラなら考えてもいいよ」悩んだすえに、店を出たり入ったりする末に交渉して8マンリラに値下げに成功!これは家宝にする!成田で受け取ったトルコブルーの美しい皿はマップタツに・・・。 ●タンザニア、ダルエルサラーム空港前で♪ ハニーにとっておきのお土産、まだ買っていなく後髪引かれる思いで、もうすぐ旅立つ。 フラフラお散歩、路上のネックレスにビビビ! 妖しく黒光りする、これはまさしくタンザニアでしか採れないタンザナイトではないか! 「これは原石のままだから安いよ、1マンタンザニアシリング!」即、飛びつき購入! お宝のネックレス!なぜか妻の首にかけられたことはない・・・。 ●チュニジアのカラウィン・モスクにて♪ チュニジアンブルーのモスクにブーカの調べが流れ、どうしてもあの、アルマジロの楽器が欲しい。モスクの前でたむろする青年に問えば、 アタシを手招きし迷路の道行き店に連れてってもらう。よく吟味するまでもなく、店頭の楽器にビビビ!交渉重ねてわずか千百円ばかし。。ラッキー!ホテルに帰り旅情に浸りつつ弦をポロリ。。。♪琴線はビニールですぐ切れた。よく見れば、アルマジロの剥製ではなく、カメの甲羅・・・・。 ●楽園タヒチは、フィラエ島のビーチにて♪ プライベートビーチなのに、なぜか地元の少年青年たむろする。アタシと彼女の前で、ズボンから取り出したフランス語の新聞に包まれていたものを見にすれば・・おおお!!黒真珠ではないか。欲しいが手に届かぬ。。。。。。 が、手下の?少年申す値段は市場の半値以下。 加工もなく金属のたぐいもないからかしらん?とにかく欲しい。即購入。 帰国して、彼女のために宝石店にてペンダントにしてよと依頼。「この石コロでホントウにいいんですか?」と店主真顔・・。 ●モロッコのアトラス山脈にて♪ 今旅中、どうしても手にいれたかったアンモナイトの化石、ついに見つけた、たくさんあるぞいな、峠の茶屋にて。こわそうなおじさんに手をつかまれビビビながらもお高い値段!山を飛び降りる気概で購入!オイもニッポン男児たい! 旅行から帰り、たまたま寄った紀の○屋書店。 「砂漠フェアー開催中」・・目にしたのはアンモナイトの数々とその値札・・・・。 ●ドイツ、シュピンスゲール、可愛い町にて♪ まだ、買ってなかった当時中学生の妹に。 そろそろ色気づく頃だと、キルティングのかわいいポーチ型バックにビビビ! これくださいな、う~~ん、どうしようか迷ったあげくに勘を信じて買いました。一度も妹の肩にかけられることなく、数年たって家から出てきた、当時3歳のワンワンの首にかけてお出かけ、重宝しました、一度だけ・・。 ――――走馬灯のように駆け巡る、いかした土産物たち。 ●「ゼンブデセンエン」バチカン市国での葉書売り、封筒のなかは厚紙と5枚の古びた写真。 ●ラクダ使いに連れていかれた香水売り屋のギザで「クレオパトラ」という名のただの市販の香水原液・・。 ●タイのバンコクで買った素敵な素敵なお香入れは、今、母の実家のトイレにある。 ●インドはムンバイで買った銅製のお盆。 とっておきの来客に紅茶をだすのに添えて、カップを置くと、盆の絵剥げ落ちて・・・・・。 ●アテネ、シンタグマ広場で前金で買って彼女の名前を彫ってもらったカメオ。夕刻取りに行ったら金庫ではなくレジからポンと出された。 その他幾多のとっておきの、エクセトラ♪ いつも旅先でのアタシと相思相愛の仲間たち。 いまでもアタシの物置部屋で愛想ふりまいている。もうすぐお家に帰れるよ、幸せを運び、古代ローマでは学問の女神のフクロウさん・・。

帰宅して―――――。 「はい、これはわんわん、これねずみ、これくまくん、・・これお愛想でママ・・で!これはパパ自身へのがんばった、ご苦労さんお土産。 どぉ?かわいいでしょ?」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ・・・・・・・・・みなさん聞いてます? じゃあ、とっておきのお土産=宝物編を――――。 ************************************************************** ジャンボ、ブアナ(ビビ)!みなさん。 今回は、アフリカはスワヒリ語のちょっぴりせつない(笑)詩を書いてみました。  3日間、九州は別府に行っておりました。 じゃあなんで、スワヒリ語なんや!との訝るご質問には、こちらに御用意しております。 九州って、日本のアフリカ大陸みたくありませんか?形が・・佐多岬が喜望峰。阿蘇はキリマンジャロで、天草や牛深は象牙海岸。博多はカイロ、で、別府は交易の街モンバサというとこでしょうか?――モンバサといば、アタシたちが出発した日の朝刊で、モンバサにおける不幸なできごとを知りました。なんともいえない胸がつかえるような思いも片隅に秘めつつ、アタシはモンバサならぬ別府へ、その象徴的な記号を自己のものと読み取りつつ、バスで総勢40名での出発です―――。  船で渡り着き、その夜は自由行動で、ささやかながらの、食道楽の旅です。 もちろんのこと、アタシのことですからしっかり下調べしてましたの。 でもね、 「まる~~、どこ行くん決めとるんか?ワシも連れて行ってくれよ」とN。 「宿で済まそう思うてたけど、ホンナラワシも出かけてきようかいの」とH。 ま、ここまではいいんです。結構懇意にしてくださる、ま、本音で申せばバカ話仲間ですから 譲っていいです、案内いたしましょう・・。 が、結局15名という約3分の1の集団がイモヅル式について参るはめになりましたの。 集団行動が大嫌いなのに引率しなければならないうえに人数がかさみすぎて、予定してた場所も変更せねばならないじゃないです(泣)、どういうこと、え~~?Nさん!あんたにね、緘口令引いたんやなかったっけ?どうなんです? 「賑やかでええで?」んな、問題やない! おじやんおばやん、引き連れてだと、シッポリしたカウンターでの、〇L、女子大生観光者風情との出会いの『夢想』が湯煙に消えるやないかいな!  結局、駅前から入った北浜の大衆居酒屋風情に落ち着いてしまいました。しかもメンバーのなかでは一番若くて、上げ膳据え膳をしてやらねばならぬ損な訳。注文ぐらい自分でとれ!トイレぐらい自分で探せ! でも、すぐ撤回します。ここの支払いはとある団体の方々がもってくれるらしいそうです。 と、・・・いうことで、どさくさにまぎれて手が出せそうにない食材にありつけましたのよ。ありったけ注文しちゃいました。まず、なんといっても佐賀関の「関アジ」「関サバ」。食通の憧れなんですよ。豊後水道で身が締まっておりまして、脊髄を針で通して一気に〆るため血が回らず、味歯ごたえある上に嫌味のない鋭さがありますの。臼杵の「トラフグ」はテッサとテッチリ両方注文。肝を大分名産のカボスをかけたポン巣で昇天ですわっ!そしてなんといっても醍醐味は日出港で揚がる「城下カレイ」ですな!身は刺身に骨は揚げてもらいました。他にも津久見の「鱧」をしゃぶしゃぶで、「豊後牛のステーキ」。日田郷の「馬刺し」、舌までとろけそう。宮崎の「地鶏腿焼き」齧り付く醍醐味ですなぁ~。「ダンゴ汁」も試しました。 なんたら、かんたらと、独りで注文して、箸つけては、周りの方々に廻すという、喧騒と湯気の向こうで、どさくさ喰い(笑)。 「はぁ~~、喰った、喰った~~」 ・・・・・・と、いうわけで、抜け駆けしてコンドはニョタイでも喰いに・・・・・。 ん??何Nさん。店のスリッパでなく、靴はいちゃって?? 「Nさん、トイレあっちですよ?」 「あ~~なた、またトボけて、お見通しやないの?どこ行くの?ワシも連れて行って」 でも、このNさん、アタシに輪をかけて真顔で冗談ばかり言うから、使える!かもしれない。 と、いうわけで、、、アタシは今日は渋く徹してNさんをダシに、ええ想いしようかいなっ!  駅前通りから北浜通り、八坂通り経由しながらめぼしいとこ歩くのですが、立ち番してるおばあちゃんが多いんですね。 「に~~ちゃん、ソープどぉ??」 「ん?おばぁちゃんがそのまま引っ張って行くんやないやろなぁ??」 それはそれは、魑魅朦朧とした絵空事でありますが、そこはほれ、タダで譲らぬNさん、ちゃんとおばあちゃんたちと懇意になって(笑)現地情報ひきだします。 で、めざす若い~~♪綺麗な~~♪コが一杯いるらしい「K」をめざしましたが、8時開店らしくて、向かいの「P」で時間潰し。 そこのママに「大分の人は美人になるためわざと鼻を低く整形する」だの、「別府の女は高崎山の猿染色体が突然変異で混じった」だの失礼千番、笑わしてくれるNさんとママさんのやりとりなど気はぞぞろで、ようやく「K」。 ・・・・・寝ちゃいました(爆)。 でも、ヘコタレズ、我ら四国の「ジャジジュジェジョ」の語尾と大分あたりの「タチチュチェチョ」の語尾の会話をあちこちで振り撒きながら、ようやく「D」という快心の安住の地!にたどり着くことができました。 ここにたどりつくまで、ワタシら「何処からきたの?何しに来たの?」に「群馬から高崎山の猿の生態調査に来た」、で押し通してましたの よ。素勢を『演じる』のも、旅の醍醐味ですよね? 「D」はもう選り取りミドリで、困惑するほどでしたが、アタシの狙いは背の高いボディコンシャスなパンタロンスーツのRちゃん。 21歳。不思議と化粧けなく二重で眼が大きく鼻の高い正統美人です。妻の面影なんぞは湯煙の向こうに朧がせておいて、この後!のクドキモードに入るのですが、Nさんらのグループと違い、なぜかハナシがまったくかみ合わない。 聞けば、「生まれが旅順なんです」と、中国からのベッピンさんでした。お父様は博多に出稼ぎに来ていて、お母様は旅順に残ってるそうです。 ちょっと淡い期待は脳内アドレナリンに留めておくことにしました。 「また来るね、明日」  と、いいつつ二日目の夜はまたギラギラさせて竹瓦小路方面へ浮気しにまいりますが。  3日間、とりとめもない雑記のような日常を移動させた祝祭日。 ハナシの落しどころがないまま、百代の過客。 なんといっても特筆すべきは、 予報では晴れる3日間のはずが、 ・・・・・・・すごい、雨・・・・・・・・。  そうそう、お約束の「お土産」ネタもありましたのよ。 帰りの別府交通センターで、ビビビ!!♪ 大分限定発売!可愛い目をした関アジの被りモノをした―――キティちゃん―――です! カボスの帽子を被ったキティとミニィちゃんより断然こっちがいい!センスいいでしょう?? バスに持ち込むのに席ひとつ占拠しちゃいましたが・・・・。もうちょっと、ちいさいのにすればよかったかな??娘たちには、ゼッタイ渡さん!!  ―――2日目の早朝、シーサイドの温泉宿の屋上の露天風呂で、高崎山の背にそれは美しいご来光を拝むことができました。 その日は大雨になることなど露知らず、湯船で鼻ブクブクしながら、ココロは旅順へ飛翔。 ―――湯煙の向こうに、まるくん、です!――― 【 HP まるくん★の旅は青空 】http://plaza.rakuten.co.jp/hunkorogashi/ より 】 *****************************************************************************************  そんな買い物上手♪のアタシも、ドゥアラからマラアに着き、カプシキへ向かう途中寄ったモコロで考えあぐねていた。―買おうか、買わまいか、買おうか、買わまいか、・・・・・・・― カラフルな女たちでとても賑わうというモコロの水曜市とやらは、すでに閑散としていた。 店畳みをはじめる彼女たちをボーッと眺めるでもなく、足が痛くて座りこんでいた。 そのとき、どこからともなくやってきた少年から差し出されたモノ。 う~~~~ん・・・・・しばらく考え込んでしまった。二つの選択肢がこんなに大きな悩み問題だとは。 それは、見たことにないやけにカラフルで大きな、生きたトカゲだった―――。

あいかわらずただのスケベなオッチャン好奇心旺盛なwオニイサンですね? ―――は、すごく真っ当なご意見。。。 と、、、、言いつつ#「いや、やっぱりハニーが一番♪」なんてオチをいつもいつも用意してるくせに# ―――は、すごく前向きな賢明なご意見。。。 で?!その心は?「あんた、実はなにかに怯えてない??‘恐れてない??@」 ―――は、すごく後ろ向きな賢明なご意見。。。 だって、、、、、じゃあさぁ~~銀河星雲中探して、ハニー以上のひといたら教えてくれよ!#と、、 言い逃げするのは、、、、アタシ♪ しかし、、、 しかぁ~~~~~しですねっ、、、 最も「気づき」がある賢明な読者は、 「自尊感情」―――というキーワードを思い浮かべるでしょうね?(ニパ♪ そうです、、、 ナニのご縁かは存ぜぬが、、、かけがえのない「隣人」を 愛せずして、ナニをもって愛を、人権尊重を、自尊感情を語れましょう哉。 正しく、、(正しくですよ)私を愛せること、ひとを愛せること=自尊感情をもって日常を気づきながら過ごせること、人権教育の最も大切なキーワードであります。 そぉぉいうことを、アタシはこのサイトでトウトウと語っているつもりです。 わかりませんか?(涙 そして、こうも読み取れます。 どんな美人か存ぜぬが、、所詮、中身は皆ガイコツであります。美人薄命の意味ではありませぬぞ。 みんなひとりで生まれ、ひとりで去っていく.....。 その間、はかない担保のように預かった肉体は、誰もが同じくして中身はガイコツ、、、違います? 焼かれたらそれらは炭素になるの以前申したとおり。 ***読んでねぇ~~だろっ#アタシの最もお気に入りの手帳***【←リンクです。飛んでみてチョ】を、キッショィ☆江戸っ子、、、じゃ・・・・ね~^^~やいっ(笑 だったら、「長い短いはともかく私たち俺たちガイコツかい」、なんの意味もなさずに、ただその担保期間に「肉体を預かっていればいい」、、かというと、そうでもない。 ここが世の常、、、ヤヤコシイところですが、「ガイコツ」とさして、何を【真に意味するか】はあなた自身が解明してみてください。 作者はとっても楽チンですwww。 なおつけ加えれば、そもそも美人てナニ?という命題も浮かび上がるではないですか? 美しいものってナニ?共通認識あるもの? 正しい美ってある?そうではないでしょう。 でも、「そうなんです」なはずなんです、、、、(どっちなんだよ# アタシが言わんとする美しいひととは、、、 「鏡よ鏡よ鏡さん♪」なタカビーなオネェチャン自由を履き違えたワールドに居座る住人であっては断じて美人ではありえません。(ここサイズ100のゴシック体!!((じゃあ肝心なところをゴシック体にしておけよ#というツッコミはさらりと流しまして、、、 「女を磨くわ♪(別に男を、でもいいのですが)」――なあぁ~~~んてチャンチャラおかしいw。 実に嘘っぽく嘆かわしいとアタシは断じる所以でふ。 あなた自身をガイコツに見立てれなくてどうしますか。 ひととして美しいひと―――。 それは、困ってるひとに同じ目線で手をさしのべられるか、諦観をしっかり見据えて、よきひとたらんと努力してるか、夕焼け空を野に咲く花を赤子の微笑を熟練者の皺を仲間と作り上げるものを―美しいと感じるか、何かに集中して取り組んでいるか、たゆまぬ努力をした選手が報われた感動的なシーンを、エトセトラを【自分のなかに還元して美しいと思えるか】、そう思えるひとが【美しい】。 そんな姿や醸し出す心象風景=もの・ひとを【美しい】というのであります。 みんなもきっと美しくなれる!!・・・・・はず、、 ・・・・・・・・・・・・なんだか、、さえない講談師みたいな今回の手帳。 気づけば自分のなかでは、、、 ただのガイコツ、、、、 それでも、、やっぱり、、ガイコツハニーは美しい(ポッ♪ 御代はいらないよ(微笑み   てなわけで、ほんとうは「お見合い用プロフ」、、、1ケ月ぐらい更新したくなかったんだけど、、、。 24才~28才、美人で可愛くてやさしくて料理上手で身長は162~168センチくらいで家事が好きで困っている人に親切で涙もろくて感動屋さんで自然を愛する人でいつもニコニコしてて・・・・風来坊のアタシをいつも待ちつづけてくれる人。 新妻募集中!! あれ?条件が「少しだけ」、ふえましたね♪ 本人、、、いたってマジメです!! 【 HP まるくん★の旅は青空 http://plaza.rakuten.co.jp/hunkorogashi/ より 】 で、集合した北ウィングBカウンター前である。 ビビビッとね♪ ビ・・・・・ビ・・・・・・ビビッ!????! ―ワ、ワ、ワーオーゲーオーワーオーゲゲゲオー・・・・(意味不明)― 「こ、今回は、あ、あんまりいい出会いは期待しちゃだめそうだな(苦笑)」

どう見積もってもアタシがひとり、突出して焼き石に水的に平均年齢を下げているようであった。 総勢13名、さすがは辺境を売りにした企画旅行会社、しかも今回が一度きりの先行企画という熱帯の南カメルーンと砂漠の北カメルーン両方をめぐる結構ハードな2週間のスケジュールである。 金と時間ならたっぷりあるニッポンの老獪なひとびとと中央アフリカ、カメルーン。 そうやったら組み合わさるのかはわからないが、一発で定員応募があったそうだ。 アタシもよくもまぁ参加したもんである、トホホホホ・・・・・・・・・・。  ショックなショックなことはまだあった。 アタシたちがまずめざすはパリ郊外はシャルル・ド・ゴール空港。 エアフランス(AF)289便は予定出発時間21時55分、約14時間ノンストップ便だ。 全席・・・・・・・禁煙らしい。 それを聞いただけで、アタシはパブロフの犬のごとく、とたんに脂汗が額を流れはじめ、生唾を何度も飲み込まねばならず、肺に空洞が開いたような感覚で、偏頭痛がしだし、心臓が止まったような気がしてならず、幻想まで見そうな様相で、すっかり足痛までが吹き飛んでしまった。 数年前、キャセイパシフィック航空も全便禁煙であったが、そのときはまだ全席禁煙の走りでアタシはたいして問題とせず、香港までわずか3時間のフライト中がまんできず、トイレで数本スパスパしたものだった。 そのとき、服にまとわりついたスチュワーデスにこっぴどく叱られたことを脳裏に浮かぶ。 当時はまだしも、いまやアメリカ資本の航空会社の飛行機なんかだったら煙草を吸おうものなら出発空港までトンボ帰りをくらい、一生かかってようやく払えるかどうかの賠償金が待っているのだ。 以前、そんなことが実際起こったらしく、メディアでも報じられていた。 ますます汗がしたたり落ちる。 つらいかな、アタシは煙草を吸い始めてこの方、睡眠以外で10時間以上の禁煙の経験がないっ(いばるな)。健康増進法など、まったく関与しないところだったのに、いよいよ公共の場では「生きていけない」時代に突入したようである。  アタシはX検査を終え、出国審査を終え、足をひきづりながらほうほうの体で向かったのは空港内でも唯一喫煙が可能らしい、カフェであった。 おお、同志たちがわんさか、ここで紫煙をくゆらせながら、間近に迫る苦痛をまぎらわしているではないか。アタシは20分の間にここでたてつづけに13本!吸ったのである。 吸い貯め、ではなく、ニコチン中毒を促進したのである。 「タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない、タバコが吸いたい、タバコが吸えない・・・・・・」 アタシは14時間のうち、2時間の睡眠時以外、ずっと汗をかきつつお念仏のように唱えていた。 「シャルル・ド・ゴール空港まであと10時間、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間55分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間50分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間45分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間40分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間35分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間30分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間25分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間20分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間15分、シャルル・ド・ゴール空港まであと9時間10分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  そして死ぬかと思った飛行機からようやくようやくようやくようやく解放され、モダンな空港内を悲鳴をあげながら喫煙場所を探すのだが、シャルル・ド・ゴールの空港どこにもない!ようなのである。 アタシは飛行機内で血液の循環が悪く、ますます悪化した靭帯痛の足を引きずりながら、モーゼの十戒の心地でいた。 もう、ひとおもいに、楽にさせておくれ、カミサマ――――。

―― アフリカのわきの下のスポンジ ドゥアラ ―― な、なんだ?なんなんだ?なんなんなんなんだ?この騒ぎは? 空港ビル構内は天から神でも降臨したかのような大騒ぎだ。 太鼓やラッパの音にすさまじい歓声が被さる。 飛行機内で血液の循環が悪く、ますます悪化した靭帯痛の足を引きずりながら、モーゼの十戒の心地でいた。 もう、ひとおもいに、楽にさせてくれ、カミサマ――――。   シャルル・ド・ゴール空港で、空港警備員に血なまこの形相でスモーキングエリアを聞き出し、涙目になりながら左片足で大きく踏み込み右足をすり足で運ぶ、を繰り返しながら地下1階で16時間ぶりのニコチン補充だ。うまいっ!もう一本!立て続けに5本!  しかし今度はこの空港で、カメルーン行き航空機に乗り換えまで5時間トランジットで缶詰状態である。まるで、アタシはニコチン切れのモルモットだ。  朝焼けのなか飛行機がどんどん飛び立っていくのを成田と変わらず、汗を流しながら待ちつづけた。 ひたすら脂汗をかきながら待ちつづけた。飛行機を?いやタバコが吸えるのを・・・・・・(恥)。  AF840機は定刻より40分遅れで離陸した。 1時間も立たないうちに地中海を跨ぎ、アフリカ、アルジャリアだ。 パリ―ドゥアラ間エールフランスの座席は最新型の液晶型テレビが備え付けられており、今現在航行している位置が地図でわかるようになっている。 音楽ばかりか映画なでのビデオもそれぞれ種類を選んで視聴でき、ゲームも搭載している。 アタシはパネルタッチだけという単純な操作にもかかわらず、機械オンチもここに極まれり!であるが操作がいまひとつわからないまま、ゲーム機相手にオセロばかり繰り返していた。 碁盤を半分埋めるどころか、こちらは碁目に10も置けばたちまちジ・エンドで機械に完膚なくまでに敗北する、のを繰り返して、ニコチン切れとともにアタシはもう切れる寸前だ(涙)。  タマンラセットやタッシリ・ナジュール上空から奇岩や大サハラの景観を小さな窓から眺めながら、気を紛らわしたりして、約8時間の飛行で北アフリカ砂漠地帯の境目あたりに位置するチャド湖を過ぎ、いよいよ飛行機はギニア湾へ向けて徐々に低空に入っていった。  飛行機は厚い厚い雲を抜け、あたり一面の濃密な熱帯雨林へと近づいて行き、カメルーン最大の商業都市ドゥアラ国際空港へ滑り込んでいった。  永い永いアタシの旅であった。 足が腫れて痛いのはもちろん、ニコチンが遮断されるという不足な事態により、アタシは2度と海外旅行など思わないと、そのときは確信していた。 飛行機から降りて、長い長いコンクリートの連絡通路を左片足で大きく踏み込み右足をすり足で運ぶ、を繰り返すのだが、成田、シャルル・ド・ホールより悪化している。 一歩一歩が以上に痛くて、重たいのだ。  入国審査が近づくにつれ、空港内が騒然としている空気が漂ってきた。 な、なんだ?なんなんだ?なんなんなんなんだ?この騒ぎは? 空港ビルは天から神でも降臨したかのような大騒ぎだ。

太鼓やラッパの音にすさまじい歓声が被さる。 何列かに並び待つ間が非常に長かったが、パスポートを一瞥されただけで、入国審査は無事終了した。 その間も祭りのように賑やかなこと、この上ない。 通路を曲がり、大騒ぎする集団がようやく全容を現した。 ジェンベという西・中央アフリカ独特のドラムや、トーキングドラムをガンガン叩く若い男たち、そしてその周りは赤・緑・黄色のカメルーン国旗を肩にかけた男やなかには女もちらほら。 祭りそのものなのか、パリからきた一便の観光客を歓迎するセレモニーなのか、気分悪くはない。 いや、というよりあまりにもすさまじい賑やかさにこちらまでハイになってくる。 いやいやお出迎えありがとう、ありがとう。 カメルーンいいところね、一度はおいで、だよね。 ―ズンチャカズンチャカ、ドンドコドコドドコドコドン、オーレッ、オーレッ、オーレッ― まるで、サッカーを応援するサポーターのようではないか。 ん?サッカー?サッカー・・・・・・・・。 ―えええええええええええっ!!??―― い、いま横を通り過ぎていったのは、かのエムボマさんではないかい? おお、皆揃いのブレザーに水色のシャツにネクタイ、大きなスポーツバッグを肩にかけている。 ひょっとして、ひょっとせずともこの集団は―――。 カメルーン・ナショナルサッカーチーム!!アフリカのライオンたちのなのだ!! 出迎えてくれたアタシたちのガイドによると、この騒動の真相はこうであった――。 カメルーンから帰国後、アタシがイエメンの旅の盟友(?)浜松のKちゃんに送ったメールには当時の様子をこう記している。 「 姫へ    ――さて、ドゥアラ空港のエントランスである・・・。 群集の殺気だった目つきは、ワシを目にしたとたん、ひれ伏して ・・・んなことはなく、鐘や太鼓をドンチャラ打ち鳴らし騒然となった。 おや?お出迎えですか?オーレオーレとかしましいったらありゃしない。 が、やっぱりそれはできすぎたオハナシ。 後を振り返れば、おや!?どこかでみたことのある顔(選別は難しい んですけど(笑)・・・)も。紺のブレザーでめかし込んでいた集団が。 なんのことはない、カメルーンナショナルチームのフランス遠征凱旋 お出迎えのサポーターたちだった。 数日後、ドゥアラでワールドカップ予選、対ガボン戦と滞在重なり町は 戦争状態のようであったことに比べれば、まだ序の口。 この先に待ち受けるさまざまな受難も、これしきのこと序の口二段なの であーる。引っ張るなぁー・(爆)――――         殿より 」 カメルーン・ナショナルサッカーチームは日本・韓国共同開催ワールドカップ大会のアフリカ予選を戦っている最中だが、1週間後の地元ヤウンデでの対ザンビア戦を前に、フランス代表チームとパリのスタットドゥ・フランス競技場で親善試合を戦い終えて、その帰還がアタシたちの飛行機と同じだったのだ。 その出迎えの熱狂的なサポーターたちなのであった。 アタシたちなんかの歓迎ではなくて、ゲートを出ても彼らから邪魔扱いだった(笑)。  その後、旅のなかで北カメルーンのマルアの町で、夕食後、ホテルのサロンで、BSの再放送らしいフランス-カメルーン戦を観戦した。 フランスは先のフランス大会の栄光を勝ち取った華麗なジダン、アンリ、テュラム、 など錚々たるメンバーだ。 カメルーンはフランスの攻撃をかろうじて封じ、またカメルーンもバーに当たるなどおしいシュートチャンスを逃し、結局0-0の引き分けだった。

翌日、ドゥアラからマルアに向かうアタシたちの飛行機でまた一緒だった。 彼らナショナルチームは途中の首都ヤウンデで降りた。 1週間後のワールドカップ・アフリカ最終予選対ザンビア戦を控えているのだという。  アタシたちの旅中、ヤウンデは狂気乱舞に包まれた。 その結果はこうである――――。 2月25日、首都ヤウンデ、観衆7万6千人。曇り。 主審・アルガンドゥール(エジプト)。 ザンビアもすこぶる調子よく、またけが人がないまま初のワールドカップ出場をかけてヤゥンデに乗り込んできた。 事実上、Aグループの代表はこの2チームに絞られた。 ザンビア、GKムブロ、DFチレンベ、タナ、ムウェナ、ミシェク、MFムマンバ(46分交代マカサ)、 シニャングウェ、ミランジ、カムパンパ、FWテムボ(85分交代ムウィラ)、キムラベ(75分交代チペタ)。 一方迎え撃つカメルーンもベスト布陣だ。 カメルーン、GKアリウム、DFチャト、ソング、カラ、ヌジャンカ(89分交代ブランコ)、MFジャミレ、フォエ、オレンベ(69分交代ヌゴム)、ラウレン、FWエトオ(69分交代ジョブ)、エムボマ。 2000年アフリカ・チャンピオンであり、シドニー・オリンピック金メダルの名実ともにアフリカ難ナンバー1の座に輝くアフリカのライオン、カメルーンはこれまでアンゴラ、リビア、トーゴ相手に大会3連勝。 2月25日、地元首都ヤウンデにそのザンビアを迎え、7万6千人の観衆は勝利を疑わなかった。  前半27分、FKのこぼれ球をエース、エムボマが決めて幸先のよい先制。 それまでアウェーながら強い気迫を見せていたザンビアに落胆の色が見え始めた。 カメルーンは引き続きボールを支配し、地元ファンは追加点を信じていたが、なかなかゴールに結びつかず苦しむ。  後半に入ってすぐ、FKからエムボマが絶好のチャンスを迎えるが、シュートをバーの上に蹴り上げ、 62分にもフォエのクロスにエムボマが合わせるもものにできない。  2点目が入っていれば、かなり楽な展開になっていたはずだが、次第に1点のリードを守ろうという消極さが顔をだし、逆にザンビアの反撃を受ける。 それでもGKアリウムの攻守に救われ、1-0のままタイムアップとなった――――。   ドゥアラ国際空港ビルを出て、チームのメンバーがバスに乗り込み出発するまで、多くのひとびとが追いかけて見送っていた。 あいかわらず鐘や太鼓でガンガンヒートアップしている。 そのうち倒れてしまうひともいるのではないか? なんだか、世界のどこにでもあるようで案外はじめて目のあたりにしたサッカー・サポーター教団である。そしてバスに乗り込む選手達は、サッカーという名の白魔術師集団である。  さて、アタシたちも現地旅行会社が手配したバスに乗り込むとしよう。 その前にタバコに火を、だ。  大西洋(ギニア湾)に面したドゥアラは熱帯性雨林気候だ。 湿った生暖かく揺れる空気に自然と、生汗がしたたり落ちてくる。 ドゥアラやその周辺地域を「アフリカの塗れたスポンジを当てた腋の下」と表現するらしい。 空は常に厚い雲に覆われ、ギニア湾の暖かい海流から熱帯性雨林でガスが充満し、いつも生暖かい。 鋭気をそぐようなアタシたちのカメルーンは静かに始まろうとしている。 熱狂的なサポーターと比例して、アタシたちを静かに出迎えてくれたのは、空港ビルに向かって手を広げているように立つ、一本のパームツリー、別名旅人の木だった。 その木の手のひらが、招き入れるしぐさなのか、―ここまでだよ―と諭しているのかはわからない。

―――さて、「偶然なき必然」、「生命のしずく」、「認識の地平線」、「アフリカの揺り篭」である―――あたしたちの物語もいよいよクライマックス――というか、点画のような一過程ではありますが・・・―です。  約300万年前、まだ足のおぼつかない先行人類と、後脚でしっかり歩くアウストラロピテクス類、そして狩猟をはじめた最初期の人類たちは久しく共存していました。  約250万年前、再び気候が激変し、動物相及び植物相が変化し、多くの樹木が消えて変わりにイネ科の植物が誕生します。 アウストラロピテクスは地下茎、繊維の硬い食物や殻の硬い果実などで食いつなぎ、彼らより細長い歯を持ち、脳の発達したヒトは、雑食性に転じていったそうです。  そして、約100万年前、気候がさらに乾燥化していく過程で、アウストラロピテクス類は適応能力を徐々に失い、脆弱し、やがて自然淘汰のメカニズムに飲み込まれていきました。  一方、ヒトはゆっくり進化していきました。 初期のホモ・ハビリスは狩猟をして食物を手に入れるため、「移動」及び「道具」を使いはじめます。一世代約50キロ移動したとしましょう。すると、約1万5000年足らずで、ヨーロッパの地へたどりついた計算になります。 丘の精神です。あの丘の向こうに何があるか?  約50万年前、ホモ・エレクトゥスが火を集団社会の営みのなかで使用するようになりました。火の支配は画期的な道具の製造を生むことになるのは容易に想像つくでしょう? そして、この長い進化のプロセスのなかで、ゆっくりと、一方から他方が派生していきます。 変化はごくごく穏やかで各地で推移していくのです。(唯一例外はヨーロッパのネアンデルタール人です。彼らは250万年前頃にヨーロッパに渡ったホモ・ハビリスたちの末裔です。氷河期が相次ぎアルプスと北部氷河に遮られた孤島となり、他の大陸の同類たちとは異なった進化の道(遺伝的浮動)をたどったのです。) ホモ・エレクトスは姿を消し、ホモ・サピエンスが登場します。ワタシたち、現世人類です。  舞台をヨーロッパに転じましょう。 約4万年前からネアンデルタール人が姿を消す3万5000年前の間です。 ネアンデルタール人と現世人類クロマニョン人はながらく共存しました。 両者は解剖学的見地からすれば、不連続でありますが、文化的には全く連続していました。 好奇心にあふれ、鉱物を採取し、歯や貝殻を集めて首飾りを作り、骨などから笛などの楽器も作りました。 仲間を埋葬し、無償の行為をし、儀礼を行いもしました。 そして、意識及びその結果としての象徴的思考は、長い時間に渡って徐々に生み出されていきました。それは、『時間の観念』の発見です。 『世界のなかに自らを刻印』したのです。 そして、来世というものを『想像』し、そこへの旅支度のため、埋葬という儀式をするようになったのです。 それに伴い、『芸術』が生まれました。  そして、その後の青銅器、鉄器、文字、私たちの知っている『歴史』がやってきます。  わずかながら、クロマニヨン人から現代の私たちに進化はあります。 骨格や筋肉がさらに華奢になり、歯が小さくなり、本数も減ります。妊娠期間はさらに短くなり、母子関係は密接になり、それだけ学習期間も長くなったのです。 今晩はこのあたりで―――――。

ホモ・エレクトスたちの揺籃のアフリカからヨーロッパへ渡る「風景」から、ユーラシアへ目を向けてみましょうか。  約150万年前あたりから、エジプトを北上し、現スエズを渡り、中近東へ進出しました。 その後、現イラン、アフガニスタンを通り、ユーラシア大陸へ進出していきました。 一方、カフカズ山脈を東に折れて、黒海を経由し、カザフからロシア、モンゴルへも進出していきはじめます。 この移動の過程で、寒冷適応などの条件による皮膚の色が抜けていったとされています。 現中国やインド、さらには当時陸続きであったインドネシアや、さらにはオセアニア、太平洋諸島へと進出し、その過程で約100万年前あたりからピテカントロプス・エレクトスや約60万年前のシナントロプス・ペキネンシスなどの原人が生まれてきました。  現日本列島に目を向けてみると、たびたび氷河期と間氷期が繰り返されていましたが、約1万5000年前までは陸続きであった日本列島にヒトが進出したのは容易に想像できるでしょう。  約9000年前から5000年前の間に気温が2度上昇し、現在より海面が5メートル上昇したとされています。 現日本列島は、大陸から分離し、縄文海進といわれる海流の影響で、東日本は落葉広葉樹林が広がり、西日本は照葉樹林が広がり、世界にもまれにみる豊かな森林生態系に恵まれました。このことは、現在も変わりありません。  私たち(日本人、、、とされている)は、ユーラシア、オセアニアという広大な地域からさまざまな人種が混交しており、モンゴロイドという基底をなしているものの、列島が大陸から分かれた後も、カヌーや筏、船などで、さまざまなルートから、幾多の『ヒト』が渡ってきてできあがった「日本人」であるのです。 日本人=単一民族、などという馬鹿げた話が成立しえないことは、おわかりですね?    神話や共同幻想を超えて、私(たち)は正しい「認識の地平線」へ向うべく「丘」に立たなくてはならない時期がきているのです。  いよいよ、長い長い、しかしほんの煌めきでしかない、「私たち」の美しくもはかない物語のエピローグはもうすぐです――――。

この王宮があったフンバンをはじめバムン族が住むのはグラスランドでも山間部に位置し、この博物館をまわっただけでも、バムン族は戦闘的な戦士という印象があるが、そのとおりドイツがグラスランド山間部に侵攻してきたき、勇敢に戦ったという伝承が残っている。 しかし、バレンタインの説明によると、1902年、ドイツがフンバンに到着したとき、当時のバムン族の王ジョヤは威厳をもって接見し、ドイツ軍と交易などについて平和的なうちに交渉したというほうが正しいらしい。 ここで一際興味を引くのは、代11の王で6キロ先のことまで聞こえたと伝えられ2m60cmあったとされる仮面を被ったスルタンのレプリカだ。 牛の顔に蜘蛛が這うスルタンの家紋、ガラスビーズで覆われた双頭の王家に代々受け継がれる仮面、呪術がばれて首を切られるひとを描いた絵画、ライオンに食われる民衆を描いた絨毯、豹の牙のネックレスなど、この博物館のなかの陳列物の数々はなかなか不気味な雰囲気を醸し出しているのである。 仮面ライダーのショッカーのアジトみたいだ。 なかでも双頭のガラスビーズの像がついた王家に伝わる椅子は、尻尾にも頭のついた双頭の蛇が椅子にデザインされている。この双頭蛇の由来は「昔、西と東から敵に攻められ危機に面したがこの村の勇者たちは勇敢にも両方ともやっつけたのだ!」という話しからきているという、そんな後ろにも目があるような兵士たちがモデルになった、顔が前後にある仮面もこの伝統的なデザインなのである。 アフリカの王政部族社会には葬式などの儀礼に登場する仮面などを管理し、また呪術集団として民衆を政教一致的要素=仮面ダンスで支配する秘密結社がある。 秘密結社というと、なんだかおどろおどろしい感じがするが、加入儀礼のある村の青年団と思ってよい。 ただし、仮面ダンスがいつ行われ、誰が踊るかは決してひとに知られてはならない。 呪術に欠かせぬ精霊が宿るのが減退もしくは消滅してしまう恐れがあるからだろう。 もちろん、秘密結社のメンバーは決して祭礼や呪術的要素が濃い儀礼である仮面ダンスにおいては決して民衆に顔をみられてはならない。ビロードをした牛の仮面にマントを被った秘密結社の衣装を着た人形が並んでいた。アフリカの仮面ダンスは衣装なども完全武装して誰が誰かはわからなくなる。

フンバンの結社のメンバーはソロ(戦士たち)と呼ばれる。 カメルーン、またバムン族に限らずアフリカでは祭典、儀式などで仮面が使用される時、仮面装着者は精霊や神々そのものとなる。仮面自体にも特別な思いを込めており、超自然的な存在とみなされている。 製作者は特定の人が行うが、専門の彫刻家ではなく、農業など仕事の手の空いたときに、特別な木の幹を用いて、村里から離れた特別な場所で制作するのだそうだ。 そして村の秘密結社のみがマスクを取扱い、装着する。つまり家人でも仮面をつけて今舞踏をしているのが息子であり夫ではないのだ。精霊なのである。 現在でも奥まった村々ではこうした伝統宗教、風習が昔と同じ形で残されているがフンバンの秘密結社のダンスは頭上に仮面をのせて仮面の首周りをラフィアなどで飾り、踊りといっても背の高い大男たちのゆったりした行進のようであったという。 ところで、そもそもカメルーンのアフリカのひとびとにとって仮面とは何であり、どんな意味をもつものなのであろうか。まずは仮面の歴史から紐解いてみよう。 「――仮面の歴史であるが、タッシリナジェールの岩壁画から、紀元前4000年には既に仮面舞踏が行われていたことがわかっている。しかし木製の仮面は厳しい自然条件の中で生き残るのは難しく、現存している最古の仮面は17~18世紀位のものである。仮面が紀元前4000年以降これまでどんな歴史的な変遷を辿ったのかそれを跡づける資料は探しようがなく、手がかりのない空白の数千年に対しては推測の域を出ないのだが、岩壁に描かれた仮面がコートジボワール周辺で使われていたものとよく似ている事もあり、仮面というものの宗教的儀礼上の役割から見て、各部族に固有の伝承や時代的な相違があるにせよ、形態としては大きな変化はなかったと思われる。紀元前4000年頃、まだサハラが 緑の平原であった頃に行われていた仮面舞踏は、紀元前3500年頃から砂漠化にともなう人々の南下のため現在のギニアあたりからカメルーン方面まで流動し、紀元前3000年頃からのバンツー族の移動と共にノック等の技術や様式がガボンやザイールへ伝わったのではないかという説がある。仮面は部族固有の神話や伝承の具現的な象徴であるため、それぞれの個性が際立っているが神像に関してはガボンやザイールではノックのスタイルとよく似ているものも存在している――。『アフリカのかたち pOWER OF ART』小川弘 里文出版 」

世界中の歴史上のあらゆる美術(芸術)の主流はリアリズムであり、手法やデフォルメはあってもアフリカの仮面や彫像ほど奇想天外なかたちが作りだされた地域はほかにない。  タッシリナジェール岩壁画の絵の人物や動物は見るからにプリミティブでかつリアリティな表現である。しかし仮面そのものは鼻や口や目を幾何学的に強調したりした、イメジネーション豊かな造形物である。 しかも、伝承されたか流布したという確証はく立証も不可能とはいえ、その岩壁画で描かれている仮面そっくりの仮面が現在のコートジボワールのウォベ族やゲレ族にあるというではないか。 それは脈々とサバンナや森林の生活様式で育まれてきたアニミズム信仰により、神や祖先、精霊とのコミュニケーションをとる代役としての役割や願いが込められ、それらの有形無形のイマジネーションの結晶として数多くの仮面造形をつくりあげたのではないかと考えられている。 仮面は祖霊、或いは精霊そのものであり、アフリカ的文化空間には、こうした霊が満ち満ちているというなかで、現世の願いごと=呪術的世界ではなくもっと飛翔した精神世界として、現在でもアフリカ諸国の部族の仮面の多様性と創造のパワーして捉えるべきではないか。 木彫が祈りの対象とされることが多いのに対して、祭りなどの儀式に使用される大切な道具に仮面が重要な意味をもつ。仮面も木彫りで、人間の顔だけではなく、自然界とくにワニや鳥、牛などの動物を形取ったものまであり、付け方も、顔にかぶる普通のお面から、動物などは頭に乗せるものまで多種多様だが、もちろん最も一般的なのは顔に被るためのものだ。 儀式などのために作成された伝統的な木彫や仮面には、一般に作者不明のものが多いが、最近は、儀式用ではなく芸術作品として作成されるものが増えているそうだ。

「――たった数点の岩壁画と現存する最近の数多くの奇想天外な仮面造形を比較するにおいてそのイマジネーションの源は現世の造形に由来するのではなく、彼等の精神生活における願い事であり、夢であるような気がする。この事は殆どの創作者が絶えず縛られてきた現世の常識としてのルールから解き放たれ、自由にこのイマジネーションを広げていった大きな理由と信じている。 ノックやその後のイフェ、ベニンの技術的熟練は仮面造形を作る時、大きな力になったとは推測できるが、アフリカ仮面の持つあの豊かなイメジネーションと仮面の持つ力はまさに人々のスピリチュアルな 創造によるものと信じる。そしてそれが、アフリカの仮面美術の最大の魅力と言えるだろう―――。 『アフリカのかたち pOWER OF ART』小川弘 里文出版 」  アタシもここ最近随分とアフリカの仮面に肩入れしているのである。 そもそもカメルーンへの旅はアフリカの仮面=マスクとの出会いと買い付けの旅だ、とは以前にも書いた通り。 しかし、今回のカメルーンでの旅では初日にドゥアラのホテルで閉店してシャッター越しに仮面の数々を見てきただけで終わってしまった。 そのかわり、ミニチュアのレプリカをあちこちで買い漁った。 フンバンの宮殿博物館の売店でもテコラッタや木製の安っぽい手のひらに収まる小さなレプリカがたくさん売られていた。アタシはそれらを10$から1$とさまざまな値で買い漁った。 北部カメルーンのキルディ族と同じようなナムジラ族の安産や健康な子を授かるお守りのための木製の母体と双子の彫像も買った。ナムジラ族はナイジェリア、カメルーン国境辺りグラスランド山間部に住む農耕部族だ。グラスランド地方のどの部族も女性の像、とくに双子をもつ女性の像は豊饒性に富み、実り豊かで再生力に溢れた大地の守護者として敬われる存在だ。シンプルな人形にビーズ、タカラ貝、コイン、金属、皮の紐類を巻きつけている。そのうちのタカラ貝は双子を表すそうである。  タカラ貝といえば、ルムスィキのホテルで、その晩に踊られたカプシキダンスでも使われるカリシャクスとよばれる腰に巻く前隠しのようなビーズの飾りにもついていた。カリシャクスは9千CFAの買い物だった。 他に北部グラスランド地方マンビラ族の丸い、おそらく太陽と女性を表したのであろう愛嬌のある粘土製のミニチュアレプリカや、ビーズワークで有名なヨルバ族のお面のミニチュアレプリカ、ナイジェリア、イドマ族の精霊信仰の彫像のレプリカ、バムン族の王の仮面のミニチュアレプリカ、ナイジェリア・アフィクポ(イボ族)の女性の仮面ミニチュアなどである。 素焼きのミニチュア仮面は本来は土産物としてではなく他部族と出会ったときの出身部族を表す身分証明書代わりになパスポートマスクなのだそうである。

ワザのホテルでも色鮮やかな面長の仮面のレプリカを買った。  カメルーンから帰国して歳月はたち、すでに家には小さな冷蔵庫も入るほどのダンボールで送られてきたアフリカの仮面が家の埃とカビが充満した(笑)お宝部屋で所狭しと眠っている。 そして、今まさにこれを書いている今日も、インターネットオークションでブルキナファソ、ブワ族の丸いお面の幾何学模様を描いた可愛らしい太陽の仮面というビビビ♪ときた(笑)をゲットしたばかりなのだ(爆笑)。 オークション落札価格10,200円也―――。 明日にでも宅配便で届くだろう。家人はまたまたあきれ返るだろう(苦笑)。 しかし、この仮面、落札通知がきたそのメールから主催する会社のHPを覗いてみると、「残りあと2つ」と、はやくも商品として紹介されていた(笑)。 商品価格なんと10,290円、アタシの落札価格と誤差わずか90円、喜んでいいのか悲しむべきなのか今ひとつ計りかねていた(笑)。 コートジボワールやカメルーン、ガボンのファン族の長細い面長な男女のペア仮面は長さ80センチにもなる仮面も買った。実はこれはワザのホテルでミニチュアの土産物にビビビ♪ときて買った(5$に値下げてとお願いするアタシにテコでも動かず6$と言い張る店主に折れて6$で買ったが)、ミニチュアの仮面がファン族の色彩豊かな面長の仮面との邂逅であった。 ブルキナファソのモシ族の仮面はもっと長い。 モシ族はブルキナファソの人口3分の1を占める大きな部族だ。モロ・ナバ時代に興隆した。 ヤテンガ地方モシ族の仮面は、幾何学模様が描かれた細長い板状が仮面頭部から上へ伸びている。 長い板状はアンテロープ、ガゼル、ワニや雄鳥、牛など野生動物や家畜をモチーフにしたトーテミズムが色濃い。これらの仮面はクランと呼ばれる氏族共同体のなかで語り継がれていく。 宅配便で届いたモシ族仮面だが、とても細長い装飾物が仮面から延びており130mもあるのだ。  ナイジェリアのイボ族は仮面の種類が1000以上ともいわれ仮面と仮面舞踏の宝庫の部族だ。 その仮面のひとつで、顔のまわりにヤシの葉がたくさん装着された、日本の神官が被るよ鳥帽子みたいな頭髪に白粉を塗った女性の仮面。 ほかにもギニアはエケ族のエイリアンのようなとても怖い顔の仮面。コートジボアール、グレボ族の仮面は両目と口がすごく突起した宇宙人的な仮面。 アタシのカビが生え埃まみれのお宝部屋はこのようにとても賑やかだ。  さて、数々の仮面をとりあげてきたが、その仮面を秘密結社に託し、葬送儀礼を行う部族集団とは一体何であろうか。 そもそも、今回のカメルーンの旅でも数々の部族が登場したが、部族という定義は何であろうか?

「――アフリカにかぎらず人間は、言語、習慣、宗教、出自(起源)などを共有する何らかの集団に属している。こうした集団は、部族(英語ではトライブ)、民族集団(エスニック・グループ)、民族(ネイション)、種族といったさまざまな名称で呼ばれる。こうした集団の定義は、「共有されているもの」の中味を厳密に考え出すと、じつは容易ではない。もっとも普遍的な基準は、「われわれ意識」を共有した、つまり「私たちはA民族である」「B人である」といった共通の意識がある集団である。これも状況によって「われわれ」の範囲は伸び縮みするから、あいまいな定義である―――。 ――民族に相当する用語は、部族、民族集団、種族など複数ある。 アフリカの人びとに対しては、民族ではなく部族が使用されることが多い。英語やフランス語において「部族」はヨーロッパの基準で社会的進化の段階が低いとみなされる社会に対して用いられる。 そこには、ヨーロッパ中心の観点に基づく優越感が表れているため、この語はすくなくとも社会科学の分野ではほとんど使用されなくなっている。学問的には「民族集団」(エスニック・グループ)と呼ぶのが、より正確であると思われる。しかし、煩雑さを避けるため、この小論では民族で通すことにする。 また、アフリカのある民族を、たとえば「マサイ族」ではなく「マサイ人」と呼ぶ。この「族」は民族ではなく部族の族だからである。民族をめぐる問題には、それぞれの国や地域によって特殊で個別な事情がある。しかし、「私たち」の問題は民族問題で、「彼ら」は部族問題という分け方をせず、おなじ目線で考えることは、アフリカの理解にとって有益であるばかりでなく、日本の私たち自身を相対化し、 捉えなおすきっかけにもなるのではないだろうか―――。 『旅行人2 アフリカ』―アフリカの民族と民族紛争―栗本英世―旅行人 」  そもそも、アタシたち日本人も「単一民族」という幻想的常識がまかり通っている。 身近に言語・宗教・生活様式が異なる他者がいないため、アイデンティティを意識せずとも暮らしてゆけるからだ。しかし、日本国籍を有し、日本語を話す、「日本国民」に間違いはないのだが、「日本民族」であるというのは根拠がないのである。 それは、方言というコミュニケーションが困難な場合をとりあげてもそうだし、アタシたちは出自、起源が何よりも「共有」されていないのだから。

―――ホモ・エレクトスたちの揺籃のアフリカからヨーロッパへ渡る「風景」から、ユーラシアへ目を向けてみましょうか。  約150万年前あたりから、エジプトを北上し、現スエズを渡り、中近東へ進出しました。 その後、現イラン、アフガニスタンを通り、ユーラシア大陸へ進出していきました。 一方、カフカズ山脈を東に折れて、黒海を経由し、カザフからロシア、モンゴルへも進出していきはじめます。 この移動の過程で、寒冷適応などの条件による皮膚の色が抜けていったとされています。 現中国やインド、さらには当時陸続きであったインドネシアや、さらにはオセアニア、太平洋諸島へと進出し、その過程で約100万年前あたりからピテカントロプス・エレクトスや約60万年前のシナントロプス・ペキネンシスなどの原人が生まれてきました。  現日本列島に目を向けてみると、たびたび氷河期と間氷期が繰り返されていましたが、約1万5000年前までは陸続きであった日本列島にヒトが進出したのは容易に想像できるでしょう。  約9000年前から5000年前の間に気温が2度上昇し、現在より海面が5メートル上昇したとされています。 現日本列島は、大陸から分離し、縄文海進といわれる海流の影響で、東日本は落葉広葉樹林が広がり、西日本は照葉樹林が広がり、世界にもまれにみる豊かな森林生態系に恵まれました。このことは、現在も変わりありません。  私たち(日本人・・・とされている)は、ユーラシア、オセアニアという広大な地域からさまざまな人種が混交しており、モンゴロイドという基底をなしているものの、列島が大陸から分かれた後も、カヌーや筏、船などで、さまざまなルートから、幾多の『ヒト』が渡ってきてできあがった「日本人」であるのです。 日本人=単一民族、などという馬鹿げた話が成立しえないことは、おわかりですね?  神話や共同幻想を超えて、私(たち)は正しい「認識の地平線」へ向うべく「丘」に立たなくてはならない時期がきているのです。 【 HP まるくん★の旅は青空 】http://plaza.rakuten.co.jp/hunkorogashi/ より 】     フンバン宮殿内の展示物の絵葉書を観光用に作成中とのことで、写真撮影は禁止とのこと。 ただし、博物館の案内人を通してバレンタインがアタシたちにこう伝える。 「絵葉書の売値と同じ、写真一枚につき500CFAで、撮影を許可するそうです」 アタシたちは苦笑いした。 アタシはアルフレッドに2000CFA、つまり写真4枚分を払い、牛の仮面の秘密結社や、双頭の仮面、王の紋章とスルタンの仮面、バウンデ族やバフム族の彫像などを次々と撮りまくった(笑)。 三角まゆげといい、一重のまぶたにつり目の強い意志をもった瞳といい、アタシそっくりのアルフレッドはアタシについてまわったが「ユー、フォー?(笑)」と笑った。  早足で宮殿内を見学し、マーケットや木彫の博物館には寄らずホテルに直行した。 熱帯雨林の風景を眺めながら車で走るのは気持ちのよいと、あらためて思ったバフサムかたらフンバンへの小旅行だった。

ワザを遠く離れるに従い、アタシは密かにその思いを強くしていた。 〇ドゥアラ空港を発ち11時に到着予定の飛行機を正午過ぎまで待つ。 〇そのおかげで、モコロの水曜市は見られずじまい。 〇ジュリアンはさりげなく言ったが、悪路のためらしくマバス村へは行っていない。 〇そして、このワザでの2日間である。中央アフリカ最大のサファリコースで鹿類と鳥しか見てない。 どうも、このカメルーンの旅はあとからジワリジワリと効いてくるボディブローを受けたような気がしてならなかった。 しかし、これまではまだまだジャブの応酬程度であることをこのときは知る由もない。 いや、そもそも旅のはじめから調子が狂っていたではないか?

さて、そんなことは露とも知らず、アタシたちはウジラに向っている。ポドコ族の村である。 南西海岸のカメルーン山からナイジェリア国境に連なる山脈の北端マンダラ山(マンダラ山辺りは第2次世界大戦中ドイツと交戦を交えた場所だそうだ)にある村だ。 この村の族長の宮殿を訪れ、収穫・結婚・葬祭時に踊られるキルディダンスを見学する予定だ。 しかし、アタシは2日前、この参加は断っていた。 村まではケモノ道を往復約1時間歩く。とても今のアタシの状態では無理だからだ。 アタシはジュリアンにビデオとカメラを預け、ジダとサーディとともにウジラの麓の村でみなの帰りを待つのだった。 行かなくてよかった。いや、行けるわけがなかった。麓から見上げた山道とはケモノ道のことで、炎天下はやいひとでも、しっかり往復3時間もかかったのだから―――。  アタシはみなを待つ間、アシスタントの若い青年ジダ君におねだりをした。 「ここで待っていてもなんだからクセリに行かない?(微笑みつき)」 クセリは、最北端に近い町で、ここから地図上では80キロたらずだ。クセリ近くのムラー村にはカプシキで見てきた土壁に干したミレット類をとんがり帽子のような屋根のカプシキハットとも呼ばれるサレとは全く違う、骨組みなしの土だけのアリ塚のようなドーム状の家があるらしい。ワザのコテージはこのクセリの村のドームを模倣したものだった。

チャドとの国境近く湿地帯の漁労部族ムズガム族の伝統的な家で、最近では姿を消したともいわれる「ムズガムドーム」だ。 「そこは遠い。無理です」とジダは即座に拒絶した。 「じゃあ、そこは無理でもどこか行かない?ここでじっと待っていても・・・・・」 ジダとサイードと3人で静かに時を待つ・・・・・とはいかないようなのだ。 麓のこの村からいつのまにか、すばらしい伝達手法に感心するくらい、大勢の子どもに囲まれていたのだから(笑)。 「では、ミスター、モラへ行きましょう」サイードのバスにジッダと3人、かなり贅沢な小旅行だ。 約30分でモラに着く。 「SONG Le PODOKO」というユースホテル兼レストランのようなドライブインで過ごす。 2人ともアタシをどこかへ観光に連れて行く気は毛頭ないようである(笑)。 「何か飲むかい」とサイードとジッダに告げる。 サイードは申し訳なさそうにオレンジシュースを頼む。ジッダはか細い声で「ギネスを」という。 ビール?夕刻の礼拝にも真摯に行うムスリムの君が?しかもプリムスではなく輸入物のギネス? アタシはこのとき、ジュリアンに忠実に従い番犬のように皆の安全を守るため黒子に徹して寡黙に働いていたジッダが突然日の光を浴びてアタシの目の前に現れたような気がしてならなかった。

アカシアの葉がかすかに揺れるポドコの中庭でビールを飲みながらボーッとしてると、真鍮のお盆を頭に載せた少年が近づいてきて、お盆に乗せた小さなビニール袋をさしだしてきた。 ゴルフボールくらいの数個の揚げパンである。玄関の椅子に座っているサイードに聞けば、「一袋50CFA」だそうだ。ひとつ買って食べてみると、サータンギーのような揚げドーナツでなつかしい味がした。小麦粉を揚げたアフリカでおなじみでこの地域では「サンフラン」という。サイードとジッダにも買い、ビデオとカメラ撮影に奔走しているであろう(笑)ジュリアンたちもお土産代わりに数袋買う。 ビールと揚げ菓子で腹を肥やしながらお天道様を眺めていると、アカシアの木陰にいつの間にか足の不自由な老人がいた。彼は両足が太ももあたりからなく、障害者用自転車に乗っている。 アタシと目があうと、「サバ(元気?)」と微笑んで、また元の鞘に収まった。 日中何もすることがないとき、ここに時間を潰しに来ているのだろうか。 アタシは彼に煙草を勧めたが「吸わないから」と笑って断ってきた。 かわりにアタシはチューインガムを2,3枚彼に渡した。彼は礼を言い受け取った。 木陰にピタリと動かない老人はこの風景によくなじんでいた。 店のひとが通りかかって一言二言言葉を交わしていた。 物乞いではなさそうだと思っていたが、そうではなくやはり彼は喜捨を求めるムスリムだった。 バスに乗り込む前、彼を見やると、ちょうど店に訪れた客に手をさしだしていたからだ。 どうやら老人はアタシが足を引き摺っていたのをどこかで見たのかもしれない―――。 「――アフリカ考えと、イスラムの教えは重なる部分がある。彼らはこう言う。 『持たない人がなにがしかを渡すのは自分のためである。こうすることによって神の加護を受けるのだから』 特を高めるために、神の加護を受けるととれる。しかし、それ以上に罪悪感や偽善と闘っていた人の救いとなる。自分のためにすることは偽善でもなんでもないのだから。 自然にできるようになってしまえば、そんなちっぽけな思惑からも解放される―――。 『アフリカ喜・気・樹(kikiki)―太陽がくれた詩と写真 板垣真理子著作・写真 理論社―より 」

何を語るわけでもなかったのに、今回の旅で思い出に残る1シーンになっているのだ。 一陣の風が吹くように、爽やかに―――。  アタシは老人に気づかれないようバスの奥に座った。 「ウジラの宮殿に行ったひとは正午には帰ってくる」というジッダに促され、ウジラの麓の村へ戻る。  今日は雲ひとつなく、格別暑い。それでいて乾いた空気もせいか、風がないのに涼しくさえ感じる。 アタシは時間つぶしにこの村の風景をメモ帳にスケッチしはじめた。 山へ登った一行は、族長の盛大な接待でも受けているのか一向に降りてくる気配はなかったが、かわりにすぐさまアタシのまわりには子どもたちが集まってきた。 大きな木に登り大騒ぎしてアタシの気を引こうとする者や、アタシがスケッチをとるのを楽しそうに最期まで静かに見守り続ける者など、それぞれのスタイルではあるが、なかなか穏やかで友好的な時間を過ごすことを彼らは許してくれた。 ここで待つ間中、ずっと「ガドゥー」攻勢ではたまったものではないから(笑)。  日中の一番暑い盛りに無為にときは過ぎていく。 アタシはこれまでよく知らなかったジッダとしばらく話をした。 彼は片言ながら英語が喋れるようだ。お互いが片言の英語というのは、一番コミュニケーションがとれるというものだ(笑)。 彼はマルア北の近郊ミンディフ村の出身だ。今彼はマルアでひとり暮らしだが、機織をする母親が顕在で幼い弟や妹も暮らしており、彼は8人兄弟の長男らしい。 ミンディフは、祭礼ともなると色とりどりの民族衣装の騎士たちが、馬に乗ってファンタジアを行う。 モロッコなど北アフリカでおなじみのイスラムの祭だ。 ヒデ族はフルベ族を馬に乗った民、という意味のプラサルと呼ぶことに頷ける。 ジダは、ミディフの観光パンフレットをアタシにくれ、ドイツ人、カナダ人など多くの旅行者が訪れ、彼の実家に宿泊したときの写真を交えその様子を楽しそうに話してくれた。 彼の実家のすぐ裏には「ミンディフの歯」と呼ばれる岩山があり、ロッククライマーに人気のスポットらしい。彼は誇らしげにそのことをアタシになんとか伝えようとし、ぜひミンディフへと誘われた。 「いつか、いつかカメルーンへ来たときは必ず君の生まれ故郷ミンディフへ行くよ!」 言葉について少し尋ねた。このフジラの子どもたちの話す言葉はジダにも全然わからないらしい。 彼にミンディフの言葉を少し教わった。 「おはようはジャンバルナ、ありがとうはウセコ、すみませんはセーファン、ごめんなさいはミソミ、 ママはジャヴァン、美しいはボドゥン、お金はファンドゥラン、水はリアム、こんばんわはホシラリジャマ、さようならはセイエリ―――」こんなところだ。これくらい知っていればコミュニケーションは成り立つ(笑)。あとはメシぐらいか(笑) 「もうとっくにお昼過ぎてるんですけど(苦笑)」

彼は真顔に戻り、慌ててバスに行って籠を持ってきた。 そこから取り出したポットのお湯で、即席の「LIPO」という甘い甘いコンシデレンスミルクのサービスを受けた。あんまり好みではなかったがそれを飲み干した。 そして、木陰で遊んでいる子供たちやジダから離れ、再びスケッチにとりかかった。 村は岩山に囲まれた谷にあたり、家々はところどころ点在する。サレに似ているがそれぞれが独立した家だ。むしろブルキナファソなどのモシ族の家に似ている。 緑はアカシアのほか、真っ直ぐのびた数本のパルメイヤヤシ、そして、柱に扇子をつけたような、旅の木に似た形をしたユーフォルビア・インゲスというサボテンが家のある谷や岩山に点在している。 大きな実をつけた葉も多い、幹が松に似た木に赤と青色のトカゲがいる。はじめて見る種類だ。さきほどのモラのドライブインでもこれとは違う灰色一色だった。 カメルーンはほんとうに色々な種類のトカゲがいるものだ。 スケッチを終えて、顔をあげると太陽の軌道は頂点からだいぶ西に傾きかけていた。 今日も快晴だ。明日にはもう北カメルーンを離れるときがやってくる。 子どもたちが遊ぶ歓声がとてもなつかしい気にさせられる。 「――かわいた風にのり       どこからか       タイコの音が       きこえてくる―― 『アフリカの音 A story of west African drum & dance』作・絵 沢田としき 講談社 より―」       モラの木陰とウジラの木陰、どちらもとても心地よい風が吹いていたような気がする。 こんなささやかなことこそが、一番の旅の醍醐味なのだとアタシは知っている―――。

――――宇宙誕生からはかない知性にいたるまでの、私が貫き通してきたのは、生きる学ぶ喜ぶ力の発揮と、同胞愛と、人権ひいては愛の確立です。 寸分の違いもない私たちは、何故他者を憎み、陥れ、差別し、また虐殺もいとわないのでしょうか?私の手帳から深くあなたの差別心に鋭利に切り込んでみてください。 同じく、生きる学ぶ力、誰しもが生き生きと輝き続けることも、私がカフェに入会した7月25日からの日記以降、すべてを紐解いてみるのもよいでしょう。 私の、旅と恋に裏打ちされた、ある一つの方向性がみえてくるはずです。 そして、この最後にお届けしてきたのが物理法則や宇宙の歴史を綴るのみならず、多くの学びと気づきの場であることを、万華鏡のように織り込んだその様々なキーワードを礎に、貴方なりに貴方の旅の杖にしてみてください。 まるくんであり、フンコロガシ、そして私「学」は・・・・・無邪気に恋するヒトは、 さまざまな出会いと気づきによる旅により、今日ここにいます。  ★旅することは、出会いです。 出会いはさまざまなものを生み出します。 出会うためにはエネルギーが必要なのです。 エネルギー=熱をもつことが自尊感情です。 内なる熱と、他者(世界)の熱が相互作用し、その出会いを意味あるものにしてくれるでしょう。 私たちは、めざすべき秩序と整合性のある光によって方向性を示さなければなりません。 いのちあるものの内にあるエネルギーいきいきと光輝くために、一つひとつのいのちが、つながりと関係性のなかで変化を創造しながら相互作用のなかで自己発揮していくのです。 熱と光に導かれて――――。 貴方の「いのち」を育んでください。 貴方とおなじいのちを育んでください。  ★私たちは誰かの一瞬のまたたきのような、一瞬のきらめき、―――でしかないのです。 それでも、私は美しいと想う。 それでも、私(たち)は今日も「考える葦」であります。 一瞬のきらめき、のなかで、ほんの一瞬私(たち)はようやく、一瞬の悲喜劇、の間いのなかで気づこうとしています。 私(たち)は、皆同じなのです。 ある権力装置から脱却するための「人権」ではなく、生まれながらにして皆がもっている自然的な人権です。 基本的人権を、生きる権利を「個人の尊厳」として捉えるなら、「平等」はすべての権利の基礎とならなければなりません。 そして、私たちは「自由」なのです。 この青い地球へのプリズマ光線が織り成す青空の下で旅するように――――。

、【幸せ】とは何を意味してきたのでしょうか? ―ああ、今とても幸せだ―という『体感』や、『情動』をお届けしたことでないことぐらいは、あなたがたの知識、価値、態度、技能が優れているないにかかわらず、一人ひとりそれぞれ感じていただけたことと思います。 では、この【道しるべ】は一体何が出発だったのでしょう? アタシは『幸せ』の『旅路』を、自己本位ではなく他者との『関係性』だ、日常から常に鋭利に『気づく』ことだとさんざん、述べてまいりました。 そして、熱と光に導かれて『自尊』感情を培うことが幸せの道しるべだと、アタシの日常の情念を乗り越えて説いてまいりました。 それが自己を『解放』し、『自由』にさせる旅路と結んできたのです。 ★『幸せ』とは、―「私」からの出発―です。  自分とは何かを知っていく、いかなる環境であろうとも自分がかけがえのない素晴らしい、価値をもった存在であることを自覚していく、――つまりは自分を好きになることです。 これが自尊感情=セルフエスティームという概念です。 この自尊感情が基点なのです。 自分がわからない人、自分が好きでない人、自分の価値がわからない人、あるいは劣等感あるいは優越感をもった人が、どうして他者を好きになれるか、他者の価値がわかるか、人に憧れ尊敬できるか、ということなのです。 厳しくもつらく暗く悩ましい現実にぶつかる前に、自己をどれだけ耕しておくかという大切さを訴えてきたつもりです。 それが―幸せの旅路―なのだと。 そして同時に、その『幸せ』を「生きながら」奪われ、厳しく激しい現実と闘いながら真剣に生きている人々の豊かな『出会い』、『学び』の出会いをどれだけもてるかということを、『関係性』=世界との出会い、そこから『交わる』ことの大切さを紡いできたつもりです。  ★幸せ――とは、いかに出会うか、いかに自分を、そして同等に人を愛せるか、です。    アタシは、これらをまるくんの『感性』からみなさんにアプローチしてまいりました。 感性というのは価値・態度の問題にかかわってきます。 自尊感情はもちろんのこと、共に生きる共感、思いやりなどの想像力でもあります。 装おうのではなく、偽るのではなく、また理論や知識のみを養うのではなく、日常から自主的かつ主体的に参画して、自ら「自らの」問題に【気づく】こと、発見することです。 自分で気づいたことは忘れません。 伝えられるよりも、教えられるよりも自分のものになっていくのです。 自ら気づくのですから、喜びもあります。『自信』にもつながります。 エンパワメント=自尊感情とは、「自己実現」でもあります。 自己実現は自ら発見していく「学習」でないと起こらないものです。  その感性や情動から、情念にとどまるのみでなく、知識や理論(自我)のみにとどまることなく、価値、態度、技能を育み、つなげて『意思』をもって「行動」しなければならないのです。それらは自然と身につく技能ではありません。 価値、態度から日常の生活や生き方と関わった知識をしっかり学び、『開かれた心』、多様性を尊重し、他者を慈しんでこそ、共生や包括的な(ホリステイックな)物の見方が生きてくると思うのです。  そして技能とは、【 広場 】でのコミュニケーション能力、話す力、だけでなく聞く力、さらに問題解決能力、可能性を追求する能力、参加する意欲、協力心、人間関係をうまく進めていく力などのことです。 あらゆる学習や、「実践」から、アタシは広場=世界のすべてが人権の根付いた社会、人権文化を築くことが、【幸せの旅路】であることだとあらゆる分野の『生きた学問』の科学的理論の裏付けたる基盤のもとに確信しています。 人権文化のしっかりした土台のないところで真の平和と自由はありえません。  信じて、実行する。ですから、アタシは「強い」のです。誰からにも(権力)打ち負かされず、誰をも(他者を、異文化を、自然を)愛せるのです。 いかがですか? 定理として――自然と平和と自由を希求しない人はこの世にいない――と思います。 異論のある方を世界中で探し当てるほうが困難だと思います。 しかし頭の中で、理屈をこねるだけでは自己実現=社会実現できません。人権、差別と声高に叫ぶのではなく、知識ではなく、価値・態度・技能でもって、暗く、重く、マンネリな【啓発】ではなく、―自分とは何か、幸せとは何か―という根源的な共感性でもって、―厳しく悩ましく迷いもあり、ともすれば絶望的な現実から―、その壁を乗り越えなくては真の幸せなどいっこうに近づいてはきません。 「生きる」などと力強く叫んでみたところで、なにがしか手からこぼれてしまうものを感じとってしまうのはアタシだけでしょうか? 人生とは日々なんとなく過ぎていくものです。 しかしながら、アタシたちはその「なんとなく」を「無為に過ごせる」保証はどこにもありません。自己をどれだけ鍛えておくか、自分とは何か、自分の価値とは、これらをいつも体感しておかなければ、厳しい現実に流され、壊されていくのです。 それが、【幸せへの旅路】、なのです。 充実した素晴らしい「私」を作る自己開発が自己実現であります。 なんとなく――ばかりでは、今まで気づきもしなかった自分の価値を発見していくことなど、とうていムリなはなしです。

【フンコロガシ=まるくん=アタシの旅路】とは私からあなた、あなたから私たちという過程でもあります。 その出発点である私は、誰なのか?何なのか?という問であり、自己理解です。 出会うことで、他者=世界との共通性をみいだすこと、共通認識をもつことが「交わる」ことです。 そのたおやかな流れのなかから、たとえ共同幻想であろうとも、豊かな人、家族、豊かな地域、豊かな社会、安心と自信と自由に満ち溢れた「貴方と僕の幸福」が築かれるのではないでしょうか。 誰かの一瞬のまたたきのような存在である、一瞬のきらめきのアタシたちの旅路。 気づかなければ、何もはじまりません。 ―私からの出発―は、あなたからあなた、そしてみんなへつなげていく旅でなくては、あなたの幸せなど、いつまでたっても青い鳥でしかありえません。 ―人と人との素晴らしい出会い、つきあい、交わり―などというのは、他人、他者の苦しみ、悩みをいかに自分のものとして精一杯受け止めていくかにかかわるのです。 自尊感情という愛と同じく、常に緊張の連続と厳しい現実を受け止めて通じる感性を磨いていかなくてはならないのです。 「想像力」といいます。 ―想像力とは、自分が自分でないものの身になって考える力―のことです。 その想像力を鍛えるのに、夢想していて、日常に気づかないまま、湧いてくる力などではとうていありえません。 想像力を磨き、鍛えるのは日頃からいろいろな人と関わりをもつ、出会いをもつことなのです。 そして、厳しい現実は、自己との闘いは、不条理に自己実現を阻まれている多くの人たちに関わり、苦しみを共感する以外、豊かな心を育むことはムリでしょう。 それがアタシのいう、「あなたの思い込みや思いやりなどでは薄っぺらで駄目」なのです。  ★この幸せ帳は、そのことに【気づく】入口です。 みなさんは、おそらくまだ扉の前に立っているだけなのでしょうが、 扉はいつでも開放されているのです。         ★『 青 空 』=『 自 由 』なのです。  なにものにもかえがたいものです。 しかし、アタシたちは、『自由』を希求しながらも『自由』な存在足りえてません。 逆説的ではありますが、自由を求む意識そのものが、アタシたちを『不自由』にしてしまうのです。 アタシ(たち)は青空を探し求めつづけます。 いつもどんより雲っていても、厚くたちこめた雲に覆われていても、雨が降りつづけていようとも、吹雪が吹きすさんでいても、、、、 ――その、突き抜けた向こうはいつもたおやかな青空。 あなたの青空を探してみてください。 アタシたちは自由な生き物です。 ★だから、アタシの旅はいつも青空です!

セネガルカッコウは鳴いてはいなかったが、たしかに平穏で平和で美しい調べの朝だった。 この岩山はルムシキィのシンボルであり、ジビ山と名づけられ、この辺りをルムスキィ・ピークと呼ばれている。 カプシキ地方の多く点在し、そびえる単峰の岩山は西欧人ロッククライマーたちの格好の場所であるらしい。

カメルーンの文化・風俗・注意点

 カメルーン滞在にあたっては、マラリア対策に特に注意する必要があります。マラリアは、カメルーン国民の死亡原因のトップに挙げられており、マラリアを媒介する蚊に刺されないようにする、予防薬を服用するなどの対策が必要です。

 カメルーンには、黄熱の予防接種証明書(イエローカード)がないと入国できません。予防接種の予防効果はほぼ100%とされていますが、念のため、虫除けスプレーや蚊帳を使用する、蚊が活発に活動する夜間の外出は避ける、長袖を着用するなど蚊に刺されないための注意が必要です。

 コレラは経口的に感染する感染症ですので、飲用にはミネラルウォーターを利用し、食事は信頼のおける飲食店で摂り、「生もの」を避け、手洗いを励行するよう心掛けてください。

 医療水準は先進国よりも低い水準にあります。重症、急病等に備え、緊急移送が可能な海外旅行傷害保険に加入しておくことをお勧めします。

 整備不良、乱暴な運転による交通事故の多発なども大きな社会問題になっています。